ウズベキスタン


意外と近い親戚の国(86)2005年11月
還暦を迎えるにあたって、記念になるような旅行をしようと考えましたが、しゃれで、韓国歴史探訪略して「韓歴」の旅をすることにしまた。
日本とは色々な意味で深い関係があり、最も近い隣人でもあるのだからもっと仲良くしたいナ。
「アンニョンハセヨ」


ソウル中心にある明洞地域のコリアナHOTELに決めて、大韓航空で2時間半の空の旅です。機内食事は期待してないとおりでした。

仁川飛行場に着き、ロビーに出ましたが、目じるしカードを持ったガイドさんがいません。
しばらく待ちましたが誰も来ないので、テレホンカードを買って、旅行社に電話をしようとしました。が、4種類の電話機があり、しばし呆然としてしまいました。インフォメーションでカードに合った機種を聞き、やっとのことで電話をすることが出来ました。
もちろん旅行社は日本語が通じました。我々が待っている出口Fではなく、出口Bでガイドさんが待っているとの事で行ってみますと、やっとの事で会うことが

府鶏煮込み
これは本当に美味い

出来きました。案内書を良く見るとB出口で待っているとのコメントを発見し、当方恥じ入るばかりでした。
日韓共催のワールドカップ時に出来た大きい飛行場も広すぎて不便なこともあるのです。

空港から60km程の市内中心までは漢江川(ハンガン)に架かる橋がライトアップされていてとても美しく、今回の旅への期待が高まるのでした。また道路も広く片側7車線もあり、日本より遥かに広い道路が走っているのでした。それでも市中の渋滞にはびっくりです。

ホテルでチェックイン後さっそく市内に繰り出します。夜半なのに若い女性達が闊歩していて、いかにこの町の安全が保たれているのかが理解できます。東京のように変な人がいない安心して歩ける街であり、国家なのです。

ウルゲンチ

明洞(ミョンドン)の夜の賑わい

焼肉や「元祖」

炭を赤々と外で焚いているお店を発見、2店が並んで営業をしています。店名「元祖」の中を覗くと地元民でいっぱいです。店内から招きのポーズがあり、思わず吸い込まれるように入っていきました。観光客は誰もいない店のようです。簡単な日本語が通じます。「カルビとロース」を注文、テーブルに炭火が用意され、塩・黄な粉・にんにく・コシジャンのたれに水キムチが付いていました。焼きながらロースを鋏で切り込んで、もう韓国の雰囲気にはまって行くのでした。それぞれの肉がタレに合い、絶妙な味を出しています。炭火で油分が飛んで見た目よりさっぱりとして、カルビもどんどん胃袋に放り込まれるのでした。

明洞地下商店街

カルグッズ
地下街は広くメガネ屋から雑貨屋まで様々な商店が並びます。店主・店員も親切で好感のもてるものでした。
夜は再び明洞の町に行きます。
やたらと人の列が出来る有名店と聞いていましたが、やっぱり大勢の行列が出来ています。あきらめようとしましたが、メニュー数が少ないので、回転が速いだろうと待つこと数分で席が確保されました。そば類3種とまんとうだけなので回転が速いのです。美味くて早くて安いので繁盛間違いなしでしょう。店名は「明洞餃子」40年の伝統、6時間かけたスープ「カルグッズ(きしめん風)」と餃子と美味しい。



ウルゲンチ(ファソン)
華城(ファソン)
練武台

最初に水原(スウォン)にある世界文化遺産を訪問します。
ガイドさんがホテルに8:30に迎えに来て快晴の中出発ソウル観光開始です。
水原に着くと中国人観光客がいっぱいいました。しばらく前は日本人の観光客が一番多かったそうですが、今や中国人のほうが多いそうです。
同時期は釜山でAPEC会議が開催されていて、ここソウルではグローバル化による農産物貿易自由化に反対する農民達のデモがあり、あちこち道路が閉鎖されて結構迂回をすることになりました。


ウルゲンチ(チャンドッグン)
昌徳宮の教化門
李氏朝鮮時代の政治の中心地、王室だった景福宮の離宮として、太宗により1405年に建設された宮殿。約270年間にわたり李王朝の政務の場として使用されました。正面の「敦化門」は大きく美しい形で親近感の持てるものでした。1997年世界文化遺産として登録されました。
国の重要儀式が行われた仁政殿

景福宮の庭(キョンボッグン)
景福宮李王朝最初の王宮、1395年李朝創始者の

やっぱりビビンバ

李成柱が建てた王宮。敷地は12万坪市内の王宮の中で最大級。敷地内の紅葉が美しく、ガイドさんに色々な事を聞きながら楽しい散歩をしました。
@国会議事堂の席には北朝鮮と統一されたときのために、北側の議員席も用意されているそうです。統一が近いのでしょうか。

A5年前から不景気が始まり、40歳から50歳代の働き盛りがリストラされています。また大学を卒業した人たちも就職がなく混迷しています。今の大統領は人気がないのです。親は子供の教育に熱心ですが勉強させるのにお金がかかり大変です。

B日本では韓国の男性が優しくて人気がありますが、現地では若い男性は優しいかもしれないが、昔の男性は全然違うようだ。掃除もしないそうです。

C北との統一については高齢者は朝鮮動乱の記憶が生々しく急ぐことはないとの意見が多く、急に統一して北朝鮮の貧困が自分達の経済に受ける影響を大変心配しているのです。若い人たちは早い統一を望んでいるようです。


D韓国のドラマを知らない日本人観光客は初めてだそうです。ロッテの免税店の受付で貰える「ヨン様のカード」を要らないと断ったら怪訝な顔をされました。

宗廟
(チョンミョ)
宗廟
李王朝歴代の王と王妃の位牌が祀られている霊廟。お盆の時期に行われる儀式が世界遺産となっています。

この国は儒教の教えが強く、嫁は正月とお盆には2〜3日前に、ご主人の実家へ行って、料理(もち、お菓子等)を作り用意するので大変だったようです。
若い人たちは自家製のキムチも作らなくなりました。昔は自宅で味噌・醤油・キムチを作り各家庭の味があったが、今はどんどんなくなりつつあるそうです。
廟の外は老人達のたまり場になっています。朝鮮動乱の時期には年金の準備的発想もなく、70歳代の人たちには年金がないそうです。北に援助する前に自分達を援助するのが先ではないかとまくし立てるのです。


板門店への旅 (ナンデムン)
南大門の夜景
ホテルに帰ってから南大門市場へ行きます。ここは庶民の市場で雑踏がすごいところです。「完璧な偽者屋」とか「偽物専門店」「幻の偽物」とか声がかかってきます。ここでは蒸餃子と気になっていた真っ赤な
「トッポギ」をいただきました。甘辛いうどん粉系の軽食で、若者達が屋台でよく食べていました。


ホテルの電飾
がますますきれいに輝き年末を迎えるムード一杯になります。ミョンドンは若い人ばっかりでしたが、こちらの市場は少し年配の人も多く見られて違和感がなくなります。卸売り市場風で、市中より安いものが並んでいます。当然食料品も安く買えます。食料品屋は結構頑固な値段が付いていました。


板門店への旅(トンデムン)
東大門
900ウォンで地下鉄に乗車、東大門市場に行きます。ここは問屋街で靴屋が数百メートルにわたって並んでいます。商品はほとんど同じものに見えましたが、ほしいものはありませんでした。さて、毛皮屋が入っている
「光照市場」の二階に行ってみると、デパートとは違う安い値段のものが並んでいます。まあそれなりのものですが、やっぱり安そうでした。


東大門の焼き魚屋食堂
外に出て、問屋街を歩いていると、またまた、店先で魚を炭火で焼いているのです。鯖・石持ち・秋刀魚等なじみの魚がこんがりと焼き姿を見せています。店員の掛け声でそのまま店内に入り、定食を注文しました。もちろん観光客の姿はなく、現地の人だけがお客さんのようです。キムチ・白菜、大根の細きり、ワカメスープとライスが運ばれ、そこに先ほどの熱々の魚がやってくるのです。この香ばしい香りがたまらなく食欲をかきたて、わさび入りの醤油に付けてご飯と一緒にかき込むと口に中はもう海の香り一杯の日本人になってしまうのでした。

東大門の屋台村
昼食後問屋街を散策していると、忽然と屋台村が現れました。もう、現地の人たちで流行っています。あちこちで、またまた美味しそうな物を作っているのです。餃子・まんとう・焼き烏賊・生蛸等なんでもそろっています。
そのほか電動の石臼でなにやら粉らしきものを挽いて、鉄板に油を曳いてお好み焼き的な「チジミ」を熱々で売っているのです。ここでも思わず屋台のイスに腰掛けてしまうのでした。一個注文してふうふうしながら「生玉葱醤油」に付け食べながら「美味しいネ」などどと言葉を交わしていると、もう一つ別な種類の野菜「チジミ」をサービスで、我々の皿に放り込んでくれるのでした。食べてみると、しつこくなく香ばしい皮が旨みを確保しているのです。
その他河童橋のキッチン道具屋風店舗、自転車屋、スポーツ用具店、洋品店、セーター専門店等が所狭しと商品を並らべています。その間を荷車やトラックが行きかうのですが、整然としていて、大声をだしたり、車のクラクションを鳴らしたりする人がいないのです。そこは紳士的な商売人たちの集まる豊かな空間でした。


仁寺洞(インサドン)
任寺洞ギルの磁器屋

コシジャン入れ 朝鮮白磁

伝統が息付く街仁寺洞ギルと言われて磁器等扱う工芸店や韓国流の工房が立ち並んでいます。古都の風情が感じられ、裏通りには多くの古風な伝統茶屋が並んでいます。良さそうな入れ物と朝鮮白磁の小皿をゲット。

景福宮(キョンボックン)
光化門
でしばし休憩して、そばにある国立古宮博物館を見学、朝鮮王朝の歴史と文化に関わる気品あるお宝が展示されていました。

韓国には多くの李王朝時代の歴史に関する建物や遺構、そして文化遺産が見られますが、豊臣秀吉が攻め込んだ文禄の役でほとんどが消滅しています。また当時多くの優秀な陶芸家が日本に連れ去られて 伊万理焼等が栄えましたが、一時は朝鮮磁器が消滅するのではないかと危ぶまれたのでした。

板門店への旅
(パンムンジョン)
板門店のツアーを日本で申し込んでいたのです。ホテルで二人をピックアップしてもらい、ロッテホテルで大型バスに乗り換えて満車状態の二台のバスで10:30出発です。

ガイドさんが日本の日清・日露戦争の歴史から、日中戦争そして、朝鮮併合の歴史を語ります。日本の侵略戦争のくだりには申し訳ない気持ちで一杯になるのでした。その後の朝鮮動乱に至る悲しい経緯のなかで非武装地帯が出来たいわれの説明を受けるのでした。
1945年日本が敗戦、日本軍武装解除を38度線を境に北をソ連が、南を米国がすることにしたのがきっかけで、動乱後の線引きがなされたのです。

自由の橋
臨津公園内にある橋。1953年に建設され、捕虜になった13,000人の韓国の兵士が北朝鮮から帰還して自由になったのでこの名前が付けられています。
左が北朝鮮側で右側が韓国側です。展望台からはカメラを向けることが禁止されています。北側に韓国兵士のいる場所を知られてしまうからです。
日本が造った北朝鮮まで続く列車用の古い鉄橋がありましたが、今では新しい橋が造られています。非武装地帯DMZ内には12kmの鉄道があり、現在連結に向けて双方から工事進行中で韓国側はすでに完成し、北側は残すところ4kmに迫っているそうです。このことから近いうちに南北の行き来がもう少し自由になるのかと考えられるのです。

JSAの専用バス
板門店に入る前に少しはやめの食事が出て一路目的地に向かうのです。
ここに入る手前では2回のパスポートチェックがありました。キャンプの中でブルーの大型バスに乗り換えます。ここでも写真は厳禁です。先導車が付き、中に米兵が一人乗り込んできました。ゲート手前で降車して、小屋の中で15分ほどのビデオが上映されます。言われの説明と、「殺されてもかまいません」の
宣誓書にサインをするのです。

軍事停戦委員会会議場内
旗の向こう側は北朝鮮です。外から北朝鮮兵士が中を覗いています。
ここは北緯37度東経126度でソウルから北へ62qに位置する軍事境界線です。1953年に休戦協定が結ばれ映画にもなった共同警備区域JSA(JOINT SECURITY AREA)が定められたのです。


ここは完全に北朝鮮エリアです。
現場では観光客は二列縦隊で進みます。チョットでも列が乱れるとガイドさんが大声を上げるのです。それはツアーが中止されることがあるからの注意だそうです。最初に有名なブルーのプレハブ小屋に入ります。二人の韓国兵が不動の姿勢をとっています。この日は韓国が当番で北朝鮮側の位置にも入ることが出来たのです。外には映画「JAS」と同じ光景があり、北朝鮮兵がこちらを覗くのでした。北側の兵士の後ろに廻るとそこは北であり、亡命だそうです。緊迫度が増すところです。
展望台に登ると北側の「板門閣」俗に言う「モンキーハウス」を見ることが出来ます。さらに、先の展望台へ行くとそこから北朝鮮のエリヤがのぞめ、「帰らざる橋」を見ることが出来るのです。南側の旗のポールは100m、北は160mのポールに旗が垂れ下がっているのでした。なんでも競争です。

帰らざる橋
軍事境界線の真ん中に橋があります。
幾度となく捕虜の交換が行われ、南か北かの選択をを強いられ、決定後は二度と反対の国へは戻れないという事から、名前が付けられたのです。
ガイドさんに映画のようなことは実際ありえるかと聞いたところ「実際にはないから映画になった」とのことでした。
最後に礼儀正しい衛兵と別れて「アンニョンヒ ケセヨ」