女一人シルクロードの旅物語
以前から気になっていた敦煌か
ら西域までのシルコロードへ一人旅の始まり。
天山南路をカシュガルから敦煌までの道のりを楽しみます。お供のBGMは、お気に入りの「喜多郎」と「ヨーヨー・マ」の曲を、PW3にダウンロードしてイヤホンを耳に差込み、NHKの「シルクロード」の世界に入り込むのでした。
それでは「ヤフシムーシズ!」


MAY/2006

 
カシュガルまでの直行便はないので羽田空港から関西空港で乗り換え、北京で一泊します。
北京は以前に増して、オリンピックがあるからでしょうか、飛行場を始め至る所で建築工事がされていて、道路や街がひっくり返されています。2008年にはどんな都市になっているのでしょうか、今から楽しみになってきます。


ウルムチ

ウルムチの街
翌朝北京発7:00の飛行機でウルムチの国際空港に降り立ち、乗替えてカシュガルへ行きます。待ち時間が長いのでウルムチ市内の観光です。二道橋バザールと北国春市場へ繰り出して行きます。
ウルムチはご覧のような都会で大きな町、往年のシルクロードのキャラバン隊を迎えたイメージは今はありません。175万人の人口、漢族・ウイグル族・カザフ族・モンゴル族・回族等が暮らしているのです。


バザールのナンを売る店
二道橋市場バザールはウルムチの解放南路二道橋に位置しています。ここに少数民族の住民、商店が集中していて、ウイグル族や回族人たちがあちこちで美味しそうなパン(ナン)を焼いています。どこからか群集が湧き出てきて、人があふれて来るのです。至る所で羊の串焼きシシカバブーの焼きたての匂いがして、胃の粘膜を刺激するのでした。
現在ここには新しい国際バザールが建設されていて、商店のいくつかを覗いてみましたが、買いたい意欲のでるような物はありませんでした。

見学後19:45発の中国南方航空でカシュガルへ行き、ホテルで一泊です。


カラクリ湖

荷馬車に羊が
今日はバスでカシュガルからパミール高原&カラクリ湖を目指します。写真は途中で見かけた羊を売りにいく様子です。両足を紐で縛り、荷馬車で揺られて行くのを、羊に分かるのだろか・・。は「ジョンバエズ」の世界です。
荒地と、赤山の砂漠の道を3時間半走ると塩湖の先に標高3100mのブルンコルコが見えてきました。


カラクリ湖
 さらに先に進むと、突然雲が切れて現れてきたのが万年雪を頂くゴングール峰(7,719m)とトムスタグァッタ峰(7,546m)をバックに控えたカラクリ湖です。
お決まりの青い空はますます青く、湖はそれを映してもっと紺碧色になるのでした。岸辺にはゲル(テントの家)が並びキリギス族の人々が生活しているのです。ここからもう少し足を伸ばせば桃源郷フンザのあるパキスタンだ・・・。次はクンジュラブ峠越えか?・・・。


アバク・ホージャ墓
バスがカシュガルに戻り、ホテルへチェックインしてからアパク・ホージャの墓を見学しました。
カシュガルから東5キロのコカンド村に、1640年頃に活躍したホージャが祭られている墓があります。彼はイスラム白山派のリーダーと言われています。建物の高さは26m、屋根のドームの直径17m、柱は一切使われていません。外壁は瑠璃タイルが鮮やかな緑光を反射させ、周りの小墓群とは格の違いを見せ付けていす。また、ホージャ一族の娘のイパルハンは清朝の乾隆(けんりゅう)帝に嫁がされ、死後ここに埋葬されていると思われ、彼女は「香妃」と呼ばれていたため、この墓は香妃墓とも地元では言われています。


エイティガール
「祭日の礼拝所」という意味のエイティガールとはアラビア語とペルシャ語のミックス語。ここは新疆ウイグル自治区で最も大きい礼拝所で、イスラム教徒にとっての精神的なよりどころです。
15世紀中頃にカシュガルの統治者「シャクルミール」によって建立されました。正門の高さは12mミナレットは18mです。
この寺に集う多くの人たちは、明らかに漢民族と異なり、東洋人でもなく、西洋人でもないが、彫りの深い顔立ちで、精悍で浅黒く、中央アジアの真ん中に立っているのが実感されるのでした。


今晩の食事はパンと揚げ物のオンパレード、揚げ餃子等


クチャ
クチャへの寝台列車 
寝台列車でクチャへの旅、途中何時間も列車が止まりましたが、誰に聞いても分かりません。しばらくしてから別の代替機関車が到着して走り出しました。そう、ここは中国の果てでした。
クチャは天山山脈のほぼ中央部の南麓に位置するオアシスの町で、古くは ホータンと並び称せられた西域の仏教王国でした。
昔のクチャにはカシュミール方面より移民してきたインド人が多く住んでいて、 彼らの通商活動によって西域仏教が伝えられました。  4世紀頃より徐々に繁栄しはじめ、7世紀頃に全盛期を迎えます。同時に、唐からの 西方への積極的な活動のために中国風の仏教文化の影響も受けています。  現在残されているクチャ仏教遺跡のほとんどが3〜10世紀の間につくられた ものといわれています。


ギジル千仏堂&クマラジーバ像
前漢時代に栄えたオアシス都市国家クチャは後漢時代には西域都護府がおかれ、唐の時代には安西都護府がおかれ、10世紀ごろまで栄えました。
古くは亀磁国が栄え貴重な仏教文化遺跡で、渓谷によって東区と西区に別れていました。石窟内には3世紀中頃にはこの地域に仏教が伝来したことを伝えています。彫像はほとんど持ち去られています。
また、4世紀後期に仏典を翻訳した高僧、クマラジーバ(手前の像)もこの地に育ち、玄奘もインドに行くときにここに寄っているのです。

歴史の勉強室
鳩摩羅什は中国での呼び名で、クマラジーバ(Kumarajiva)といい、父はイ ンド人、母はクチャ王の妹。  その母は敬虔な仏教徒で、彼女は出家して尼となり、仏教を鳩摩羅什に直接 学ばせるために9歳の彼を連れて西北インドへ行きました。そこで鳩摩羅什は上座 部仏教、そして大乗仏教を学んでこれをクチャに伝えましたが、384年に五胡十六国 の1国、前秦の軍に捕らえられて河西の涼州に連れ去られました。  その後、401年に長安に招かれて布教と経典の漢訳に従事し、297巻、あるい は384巻と言われる膨大な量の経典を中国語に翻訳し、中国仏教の基礎を築きました。
三蔵法師こと玄奘が現れる前は、中国仏教最大の訳経者とも言われています。
「色即是空、空即・・・・。」


スバシ故城
玄奘が記した「大唐西域記」に登場するアーシュチャリア寺院がこれだと言われています。寺院はクチャ川を挟んで東寺区と西寺区分かれています。寺院を中心、僧坊、北塔、石窟などが点在しています。
右の
クズルバガ烽火台は高さ13m

トルファン

交河古城
はトルファン西10kmのアルナジル溝に位置する。国家重点保護文物。歴史によると、漢王朝までに、交河は車師国の王城であった。五世紀に高昌王国の交河郡で、唐代の安西護府もここにある。現在の古城の遺跡を見学して、昔唐の時代の繁盛と栄えが見えます。



高昌古城遺跡
トルファンの東40キロに位置します。重点保護文物のひとつで、この古城は紀元前一世紀に作られ、西漢王朝のときに建設されたもので、明の時代の初めに再び修復されました。当城の存在歴史は約500年にも達し、古きシルクロードの門戸として有名です。NHKテレビの様に低空から望めばすばらしい世界が開かれていることが想像されるものでした。
ここではハングライダーではなく、ロバ車で進むことになります。ロバ車は遺跡全体を回るので、運悪く前のグループが乗って行ってしまった後だと、それが帰ってくるまで待たなければならないのでした。



ベゼクリク千仏堂
街から東北へ約50キロメートル、火焔山を分け入る道にさしかかる。そんな道の先の断崖に渓谷を見下ろすように造られた千仏堂がある。
ベゼクリク千仏堂は5〜6世紀ころから造られ、9〜13世紀の回鶻高昌国の時代に最も栄えた。現存するものは64窟、そのうちの40数窟には「西方浄土」や「涅槃の図」などの仏教説話が壁画に描かれている。ただし、元王朝にこの地方が滅ぼされて以来衰退し、イスラム教が伝わるにつれて大きな被害を受けた。壁画の仏像の目は無残にくりぬかれたままになっている。20世紀初頭の各国探検隊によって持ち去られたものもあるが、難を逃れたもの、後の時代になって修復されたものも多く残っている。


タクラマカン砂漠は東西1000キロm南北400kmで総面積が33.76平方kmで中国で最大の砂漠。世界でサハラ砂漠についで二番目に大きな流動砂漠。砂丘の面積が広く、起伏の高さが100から300mで、砂漠の奥地が広い海のように、見渡す限り果てしない。砂漠道路は勇気あるものだけが行ける厳しいものである。

火焔山
トルファン盆地の中部にあり、東西100キロメートル、南北10キロメートル、平均海抜500メートルという火焔山は、切り立ったような岩石が幾重にも段をなし、1本の草木も見当たらない荒涼としたものです。もっとも高い所は「勝金口」で851mもあります。
地殻の褶曲運動によってひだが入った赤肌は、真夏の太陽を受け、まさに燃えているがごとく見えるのです。
あまりの景観と乾燥した高温(42度)に喉もカラカラになり、言葉がでないのです。
『西遊記』の中で孫悟空がこの炎を消せる「芭蕉扇」を手に入れるため「鉄扇公主」と戦う舞台になっていることでも有名な山なのです。
「空に飛ぶ鳥なし、地に走る獣なし」が実感されところでした。

トルファンから敦煌(柳園)へは寝台列車で行きます。

敦煌
  
敦煌莫高窟
甘粛省の河西走廊の最西端に位置し、面積は3万1200平方キロ、古代シルクロードに位置する有名な都市である。今からちょうど100年前、敦煌莫高窟(ばっこうくつ)で第17窟(蔵経洞)が発見され、紀元4世紀から11世紀の仏教経典、古文書、刺繍、絹絵、楽器・仏具などの文化財およそ5万点が出土、20世紀における文化史上最大の発見のひとつとして注目を浴びました。しかしこれらが発見されたのは、清王朝末期の列強各国が台頭していた時代で、そのため蔵経洞の文化財の多くが国外へ持ち出されることとなり、中国の文化史上最も大きな痛手となっています。
新疆拜城のキジル千仏洞から、古代シルク・ロードを東に進み、甘粛省河西回廊にある敦煌県内に入る。世界にその名をとどろかせている敦煌莫高窟はここにある。敦煌は甘粛と新疆の境のゴビ砂漠にあり、もともと古代シルク・ロードの要害の地であったのです。

玉門関
古代の関所跡、漢の時代に権力が及んだ西域の端でありました。10mの高さの城壁が残っています。また、近くには漢代の万里の長城が2000年の風雪に耐え何とかその形を残しているのです。長城の周りには烽火に使われたの思える薪も残っているのです。




月牙泉&楼閣

シルクロードのイメージは砂漠ととオアシスですが、ここほどそのイメージにぴったりの所はないでしょう。太陽の角度によって砂の色が変わり、歩けば砂が鳴き、日向と日陰のコントラストがなんとも言えない美しさを見せるのでした。山すそから砂漠の山頂「鳴沙山」を目指します。砂に足をとられなかなか進めません。写真屋のお兄さんに助けてもらいながら山頂に辿り着くと、眼下に月牙泉の三日月を見せてくれるのでした。さらに山頂から反対方向を望めばそこには絵に書いたような砂漠地帯がつならり、三蔵法師や、クマラジュウやの往時の姿が想像されるのでした。
今回の旅は「NHKシルクロード」を観てから25年間温めてきた計画の実行で、思い通りのすばらしい旅になりました。もう一度ゆっくり来てみたい所でした。