中央アジア

カタール(84)・チュニジア(85) の旅2005年8月

チュニジアのブラ・レジア地下遺跡
ローマ時代の精密なモザイク「ヴィ−ナス」
サハラ砂漠とローマの遺跡とスークの雑貨を求めて、暑い中さらに熱い国チュニジアを探訪しようと計画しました。個人旅行で現地レンタカーを借りてフラフラするかと思い、つらつらとカタログを見ていましたら、U社ツアープログラムにチュニジア周遊とカタールにチョット寄るパンフレットの題字が目に入りました。これに魅せられて、お任せツアーに参加することにしました。
今年(05年)の4月に就航したばかりのカタール航空会社のフライトです。誰が付けたのか知りませんけれども、5星が付いたとか、別段他社と比べてもどこが?という感じですが、食事はおいしいものでした。
関空からだけ出ていますので羽田から関空まで余計なフライトが付いてくるのでした。

 

ウズベキスタン
ウルゲンチ

 6時間の時差。ドーハには何故だか予定外の朝4時10分に到着してしまいました。当然バスもまだ来ないので空港で待つこと一時間。AIVSのカウンターで町の地図をもらうと、そこの係りは出稼ぎのネパール人でした。しばらくすると、エアコンの効いた大型バスがやってきました。一歩外へ出ると、そこは高温多湿の温室的地獄、サングラスに大粒の水滴が付き見えなくなりました。
道路標識の歩行者の姿もアラビア風になり、市内観光が始まりました。

ドーハは中東のCNNと言われている衛生テレビ「アルジャズィーラ」本局のある町、しかし何故か観光バスはそのビルには目もくれず勢い良く通り過ぎていくのでした。アラー。

ラクダ市場で番人と
そしてラクダの市場へ行きました。さすがにここだけは現地産直売です。砂地の多い場所に多くのラクダが集められており、番人がテントに住み込んでいます。その周りをトヨタのランドクルーザーの新車に乗った、真っ白なアラビアンスタイルのバイヤー達が取引するのでした。一頭は5〜600ドルで取引されるそうです。砂漠で暮らす人々にとってラクダは生活の一部であり、人や物資を運ぶ手段、競争用、食用と、別名「砂漠の船」と言われるほどに貴重品なのです。たまにとんでもない場所にラクダが居ることがありますが、ほとんどのラクダには持ち主がいるそうです。


野菜市場でナツメヤシの選別作業
野菜市場で働いている人はほとんどが出稼ぎのインド、パキスタン人です。やがて気温がもっとどんどん上がってきます。
このような砂漠の国で野菜ができるのか聞いたところ、大半は輸入品だそうです。ちなみに立派なジャガイモ(メイクイーン)はサウジアラビア産でした。次は香辛料を扱っている市場へ、香辛料や雑貨のたぐいはやはりインド方面からの輸入品です。ナツメヤシの実だけは特産品で何処でも食べられる甘い果物?でした。


パームツリーアイランドからドーハ湾を挟んで中心地
ダウ・ハーバーからは対岸に摩天楼を望むことができます。
石油(残り45年)をバックに大金持ちが登場し、ドバイに追いつけ追い越せと、今ドーハは建設の大ラッシュです。2006年アジア大会開催に向けて猛然とダッシュしているところです。しかし現場で働いている人はほとんどが出稼ぎの人達です。パキスタン、インド、ネパール人です。カタールの人達は昼間の暑い時間には誰も外には出てきません。


ダウ・ハーバーの木造船
町の中心地に大ショッピングセンターがあり、覗いてみましたが、値段はかなり安めです。若い黒ずくめ(ブルカ)の女性達を多く見かけましたが、写真撮影は「NO」の返事でした。でも、ブルカの下は派手な洋服やジーンズがのぞくのでした。
その後アラブ馬の訓練所へ、日本では数年前からアラブ産馬は競馬では使われていませんが、ここでは「ラクダの競争」並に人気があるそうです。

「ドーハの悲劇」の総合スタジアム
このスタジアムで1994年のワールドカップ(FIFA)アメリカ大会のアジア地区予選が行われました。ここで対イラクに勝てばW杯本戦へ出場が決定する場面でした。カズ&ゴンが一点ずつ入れ2対1でロスタイムを向かえます。残り数分でイラクにコーナーキックを許しましたが、もう日本は勝ったと酔いしれていたところ、それがショートコーナーだったのです。意表をつかれた日本ディフェンス陣は何もできずに同点打を許してしまったのです。結果、初のW杯本戦出場の夢は叶わなかったのです。

スークで買い物

暑さ対策のマフラー類を用意

夕刻少し涼しく?なったところで町の中心へ行きました。歴史のない国ですから、他の国に見られる様な雑然としたものでなく、普通の町場です。暑い昼間を避けた男連中が三々五々集まるのでした。

ど派手バイクとフセインもどきおじさん
ゴチしてくれたおじさん
夜なのにあまりの暑さに、お茶を飲ます店に入ると、一人の老人が濃厚ミントティーをごちそうしてくれました。
もう一人のフセインもどきの髭を生やした人物が、新聞写真を示しながら、本人自慢の改造車を見せたいとのことでした。のこのことついて行くと、ビルの駐車場にそれが有りました。これが相当の代物で、オールドキャデラックとジャガーのど派手飾り付車と、カワサキのバイク2台を同じくど派手にデコレーションしものでした。それでも、キャデラックは大爆音の音楽と共にエンジンがブルブル回りだしたのでした。

昼食はホテル「ラマダRAMADA」でのビュッフェでやっと落ち着きました。
ここのホテルはさすが、以前自爆テロにあった国だけに、入り口でも危険物チェックを行います。それが安全の為と思えばありがたいことです。

入り口のチェック ポテトコロッケ ケーキ類の山 野菜の肉詰め


昼間外に出てみましたが、外にいるのは出稼ぎ人と旅行者だけです。昼は「オーブン」の暑さ、夜は「蒸し風呂」の暑さと言われていますが、本当に気温は50℃に達したのでした。



           

ウズベキスタン




遺 跡 探 訪 編
古代カルタゴの栄華は紀元前814年から紀元前3世紀のこと。ポエニ戦争でローマ軍に破れ全ての文明は焼き払われた。
そのローマも646年にはアラブ人にとって替わられ、1492年にはオスマントルコの支配下に、そして1881年にはフランスの植民地化、独立したのは1956年でした。
地中海の要所にあり、気候も温暖しかし南に行けば灼熱のサハラ砂漠が広がる地理的にも様々な顔を持つ国なのです。イスラムであってヨーロッパ的なナイスなパラダイス、そこに多くの興味ある遺跡が点在しているのを見逃せません。まずは遺跡探訪編です。



ウルゲンチ

紀元前814年フェニキアの王女エリッサはレバノンからこの地に逃れ、ここに町が建設されカルタ・ハダシュト(新しい町)と呼ばれていました。海上貿易等で国は繁栄しましたが、なにせローマに近すぎました。ポエニ戦争を三次にわたってローマと戦い、名将ハンニバルが像を使ってアルプス越えの戦い等を行いましたが、3年間の篭城戦の末陥落して町の全てが破壊されました。

カルタゴのローマ遺跡・ピュサルの丘
ピュサルの丘、オユサルとはギリシャ語で牛革の意味、牛革の伝説発祥の地。王女エリッサが牛革一枚の土地を譲り受けることになり、その革を切り裂いて細い紐を作り、大きな輪を作ってその中の広大な敷地を手に入れたと言う伝説が残っています。
この遺跡の規模は小さいが、カルタゴの中心地でした。ローマ人がカルタゴの町を徹底的に破壊した形跡が残っています。塩を蒔き町を根絶しようと思ったが、よい町なので再び町を作った場所です。敷地内にサンルイ教会【1890年フランスによって建設されました。1270年十字軍遠征に参加しこの地で落命したフランス国王ルイ9世に捧げたのです】とカルタゴ博物館があり、ローマ時代の彫刻が何点か飾られていました。


ポエニ人の墓地トフェ
妖気漂うローマ時代前のフェニキア人幼児のお墓群、太陽と炎の神バールハモン神殿がある。生け贄として祭られたとか、あるいはローマ人のでっちあげかはさだかではない。小さな石碑が並んでいました。

古代カルタゴの軍港
軍港跡は二重の円形をしていました。軍港の手前に長方形で縦500m横300mの商業用の巨大な港が建設されていた。周囲には倉庫郡が建てられ、多くの穀物が蓄積され、地中海貿易の大きな拠点の一つであり、往時の繁栄振りが偲ばれます。また、軍港は直径300mで220隻の軍船を係留でき、ドックも建設され、モロッコまでの地中海沿岸を植民市とした強力な船団をここに備えていたのです。今では周辺は住宅の一等地になってしまっていますが、海軍が強かったカルタゴらしく、軍港の円形堀は今でもはっきり残っていて興味深いものでした。
当時の図解

バブル経済が終末を迎える頃、わが国はがむしゃらに働き、とめどなく輸出をはかり、海外の不動産や企業を買いあさり、人生の楽しみや心の豊かさを追わず、各国に対する振る舞いや国際貢献が「金」だけで、人的援助は行わず、諸外国から日本人は「エコノミックアニマル」と言われていました。
その様がこの都市国家「カルタゴ」全盛期のやり口に大変似ていると言われ、米国の核の傘下で経済を発展させていることが、カルタゴの傭兵での戦い方や、逞しい商魂らが、やがてバブル崩壊を迎える日本とカルタゴが滅亡していく姿が相似形であると言われていました。森本哲郎氏は国際貢献をどうやって行けば良いのか模索し続けていた迷える 日本の姿を「カルタゴのコンプレックス」と表現したのでした。


ウルゲンチ

アントニウスの大浴場
古代ローマ時代世界でも最大級の浴場アントニウス共同浴場は地中海を見渡せる抜群のロケーションです。海に向かって緑多いなだらかな傾斜地に建てられ、湾内を一望できます。ここで温水浴&冷水浴をしてのんびり過ごしたら最高の癒しになることまちがいなしでしょう。その証拠に、左どなりの大敷地には18年間大統領の椅子に座りつづけているベン・アリ氏の大官邸がどっかりとたたずんでいるのです。尚、そちらに向かっての写真撮影はご法度でした。


ウルゲンチ

ザグーアンの水道橋(2000年前から続く世界最長の水道)
聖地カイワランに向かう途中、街道際に大きな水道橋が現れます。ローマの水道跡は各地で見ることができ、いつも驚かされるのですが、この水道橋は全長35qを誇るもので街道の際に延々と続く壮大なもので圧倒されます。2世紀に造られたにも拘らず、ザグーワンからアルタゴまでわずかな傾斜を作るため、その多くは地中を這い、今でも20qも残っていて一部使用しているのにはさらに大きな驚きです。

100メートルで17センチの落差をつける技術をもっていたのです。それでも保存状態は悪く、世界遺産であるのにもったいない感じがします。


ウルゲンチ
ビザンチン時代最後の地「スフェトゥラ」、7世紀半ばビザンチン帝国のグレゴアールが、首都コンスタンチノーブル(今のイスタンブール)から独立を宣言してこの地に首都を作くりました。その後2万人以上のアラブ兵に襲撃を受け、その歴史は終焉しました。

スベイトラにあるローマ時代の
スフェチュラ遺跡
ローマ名をスフェトゥラといった。一世紀に建設され2世紀にはオリーブ油小麦大麦の輸出で栄えた。ローマ劇場・共同浴場・ニンフェウム・フォーラムと続き神殿郡(ミネルヴァ・ジュピター・ユ)これがなかなかのものでした。3つの社はすばらしいもので、今回訪問した遺跡の中で最も気に入った言った物の一つでした。

139年に建てられたアントニウス・ピヌスの大きな門を潜り抜けるとフォルムが現れその先に神殿郡が現れるのです。3つの建物が整然と並びそれぞれが個性を主張するのです。
誰もいないフォルムに佇むと、2,000年前と同じ風音だけが通り過ぎて行き、長い時間をかけてここまで来た甲斐があったと納得するのでした。しばらくして観光客がいなくなると、管理人のおじさんがやって来て、「良いものを見せるから付いて来い」というので行ってみると、鍵を外してジュピターの裏側内部を案内してくれました。そこには2,000年前の色塗りの彫刻された壁がきれいに残っているのでした。そこには又あの風が吹いていました。


ウルゲンチ
エルムジュ円形闘技場(西)
オリーブの生産と輸出で栄えたローマの都市ティドルスの町の有力者市民の寄付で200年頃から建設が始まりました。ゴルディアヌス1世の乱のとき工事は一時中断しましたが、ゴルディアス3世の時世(238〜244年)に完成しました。共同体の名誉は公共の建物の大きさに比例したため、大きければ大きいほど良かったのです。この闘技場は当時の市民の総数の三倍の35,000人を収容できる大きさとなりました。大きさはローマノコロッセオより一回り小さいだけで長径162m短径118m高さ40mであった。ちなみに、ローマ闘技場は長径188m短径156m高さ57m収容人数50,000人であった。


ローマ時代の巨大なエル・ジェムの円形闘技場(東)
ローマの闘技場より小ぶりな大きさですが建造物がかなり残っており、当時の格闘の場面を彷彿とさせるには十分見ごたえのある規模でした。音響効果も抜群で、反対側の声がよく聞こえるのでした。暑いはずで43℃になっていました。


 ウルゲンチ
古代ローマ時代にはローマ、アレキサンドリア、カルタゴといった大都市に食料を供給する穀倉として帝国内でも最重要の土地であった都市遺跡です。
チュニスからザクアンまでは途中高速道路が完成されていて、快適なドライブが続きます。

ヌミディア王国からビザンチン帝国の時代まで栄えた町だけに、興味深いものが多く散見されました。

ブラ・レジア地下遺跡:床一面にローマ時代の精密な モザイクが残っていますこれはその内の一つ「ビーナス」

邸宅跡
建物は三層が多く一階二階、そして地下にもう一層が掘られていましたが、地震のため1階2階はほとんど残っていません。地下室には噴水のある中庭も多く見られ、床は鮮やかなモザイクで飾られていて今でもその上をしっかりと歩けるのです。この暑さでも地下はひんやりとして天然のクーラーとしての役目を果たしているのです。上下道水も完備しており、共同のトイレももちろん水洗でしたので恐れ入った場所でした。

しかしながら、美しい床のモザイクはほとんど剥がして博物館に移動しているので、大変残念でした。あるがままででのモザイクタイルをここで見たかったのでした。
劇場跡



ウルゲンチ世界遺産
北アフリカでも有数の保存状態が良い1997年に世界遺産にもなっているドゥッガ遺跡を見学。標高600mの高台にあり、今回の旅ではめづらしくそよ風が吹く爽やかな観光となりました。紀元前2000年にヌムディア人が住み始めたのが最初」。紀元2~4世紀にもっとも栄え、1万人以上が住んでいたと言われている。ビザンチン時代には要塞化されていた。ここでも、雨男の私目は突然の雨を降らしたのでした。

ドゥッガのローマ劇場跡
チュニジア最大規模のローマ遺跡入り口を入るといきなり大きな劇場跡が見えてくる。舞台と客席は大変良く出来ていて、今でも十分使えそうで、実際ににもいろいろな催し物に使われるそうです。丘の斜面を利用して造られているので15mある階段席の最上に座ってみると、舞台後方に田園風景が広がり、この地が、いかに豊かであったかが想像できるのです。

キャピトル

舞台から見た客席

米国のホワイトハウスの玄関先のような建物です古代ローマ都市の中心はフォーラムと神殿。ここはユピテル神殿(ジュピター)だけがはっきりと残っています。6本のコリント式列柱は今も健在で、堂々たる風格を表現しているのでした。内部には巨大な(6m)ジュピター像があったそうです

アーキュリー神殿とゼウス神殿、フォーラム、コンコルディア神殿、リキンア浴場、トルフォルムの家が並んでいました。