15.マレーシア/ レバノン・シリヤ・ヨルダン
  
 
中東に広がる古代遺跡の旅とおまけのマレーシアの旅 2002年6月

2001年9月11日の米国同時多発テロとイスラエル&パレスチナ問題が揺れ動き、中東の旅行は危険度が増し難しかったが、ここに来て若干情勢が安定し、再び中東への旅が可能になりましたので、中東3カ国の旅行を計画してみました。
旅の情報を集めた結果マレーシア航空を利用するツアーに参加することにしました。当然飛行機はクアランプール(KUL)に寄港するとのことなので、途中下車?して少しこの国を見学してみようと思い立ち、ツアー会社に打診したところ、手数料を払えばOKとの返事が来ました。
マレーシアからマハティール首相が突然退陣するとのニュースも入り、彼が元気なうちに彼の功績の一部を垣間見ようと、この地を訪ねることにしました。また、アジアのイスラムと中東のそれとの比較も興味があります。
そして、前半はせっかくの自由な旅なので、アップルワールド旅行社を利用しておもいっきり?上等なホテルをインターネットで予約して出かけました。アップル発行の「クーポン」は以前はコピー用紙でしたから、チェックインが成功するまで不安でしたが、今回からは印刷されたものでしたから安心しました。5日間マレーシアに滞在し、そして後から来るツアーにKULIAでドッキングしてシリヤ・レバノン・ヨルダンの旅を続けようと考えました。



マレーシア編

成田で「海外ツーリストパーキング」に車を駐車し飛行場に向いました。ここの駐車場は帰りに野菜をくれるので楽しみです(今回はジャガイモでした)。空港でチケットと搭乗券をいただき、朝食を食べてTAXFREEでアルコールと煙草を仕込んで飛んでいくのです。

クアランプール

7時間のフライトでマレーシアに到着、KUL空港では降り口手前で市内までの「往復タクシークーポン」を購入しておきます。片道RM91帰路RM40でした。復路は利用前日に電話で予約をしてくださいとのことでした(前日に電話をしましたら車両のNOとドライバーの携帯NOを知らせてくれました)。市中まではけっこう有り、車で50分ほどで(成田より近いが)リッツカールトンホテルに到着です。日本人スタッフもいて部屋も広く快適です。さっそく市中へ繰り出します。夕方は必ず雨が降ってくるようなので雨傘持参です。夜道をやっとのことで「DFSギャラリア」まで行きましたが、お客もいないし、商品も少なくもう寂れてこんなものかの感じです。それでも従業員は親切、雨が降ってきたらホテルまでのシャトルワゴンを出してくれました。宿泊ホテル近くのマリオットホテルで途中下車してイタリアンで最初の夕食です。
この日も市内のあちらこちらでワールドカップを放映していて、「ジャパンはストロング」だとはやしてたてられます。ここまでは得意げな我々でした。


中華街で朝食「粥と肉まん
翌日は徒歩で中華街まで歩いてみました。ホテルからインド通り、旧刑務所の前を経由し、ハンツエパット通りをへて30分で到着です。MIの好きな中華街は露天商が所狭しと並び、雑貨や食い物が溢れます。7世紀頃から中国人はこの国に住み着いています。彼らはどこへ行っても力強くバイタリティにとんでいます。まずは朝食と地元御用達の食堂へ、あちらこちらから呼び込みが聞こえます。大衆食堂に入りさっそく朝食定番の「チキン粥」と「肉まん」を注文、お粥はだしが効いてGOODでした。
食堂の調理場風景



セントラルマーケットのカラフラな凧屋
食後はセントラルマーケットへ、大きな建物の中に工芸品から生活用品までそろってローカル色豊です。MIは八角(調味料)・ガラムマサラ(カレー用スパイス)・ホールナツメグ・更紗をゲットしていました。
雑誌で紹介のマーケット向かいの日本人好みのアジア雑貨店「キア・クレメンツ」とチャイナタウンにある「ピーター・ホエ・エボリューション」へも行きましたが趣味に合いませんでした。



マスジッド・ジャス
ケラン川とゴンバック川の合流地点で錫が発見されKULが発展してきた重要なコーナーに1909年KUL最古のモスクが建てられ、ここが中心地となりました。
この橋のたもとで観光案内書を読んでいると、初老の男性に声をかけられました。人の良さそうなおじいさんです。日本に行ったことがあり、困ったことがあればどうぞとのことでした。そのうち「コーヒーをご馳走しましょう」と親切に言ってくれましたが、丁重にお断りしました。それが旅行者の鉄則でしょうが、すこし寂しい気がしました。若い頃は時代が違うからでしょうが、何処えでもノコノコ付いていったものでした。逆に日本で外国人旅行者に話し掛けたら同じように丁重に断られるのでしょうか・・・?
この近くには1957年英国の支配から独立し、それを宣言したムレデカ広場があり、誇らしげに100mの高さの掲揚台に国旗がたなびきます。

スルタン・アブドゥル・サマド・ビル
1824年英国とオランダと協定が結ばれ、マレー半島は英国の支配となりました(そんな勝手が通った時代です)。特にここのすずは大事な特産品であり、その後日本軍も4年間ほど占領した時期もありました。
その当時の日本軍の制服や武器等がムルデカ広場前の歴史博物館に展示してあります。それら各国の侵略の歴史をその国で見るとき、列強国がいかに自分勝手でエゴであったかが理解できます。


KLのビル群
マハティール首相が掲げた「ビジョン2020」は工業化をめざし、日本に追いつき追い越せの象徴となるツインタワーはに馬鹿でかいビルで、どこからも見ることが出来ます。そのほか数えきれないほどの高層ビルが立ち並び政府と国民の意気込みが強く感じられます。
同首相はマスコミや司法を力ずくで押さえ込んできた元首ですが、この国の経済を成長させ、民族対立をコントロールし、国際的にも自国の位置付けを高いものにした功績と存在はゆるぎないものがあります。それでも来年2003年の10月には退任するようです。フードコートで食べたもの言ってる割にはたいしたもの食べてません。

ペトロナス・ツインタワー
これがマレーシアご自慢のビッグタワー、地上452mは高いです。下から見上げると首が痛くなるのは本当の話です。1996年竣工、韓国と日本の建築会社がそれぞれを担当しました。ステンレスとガラスがきらきらと太陽に反射して、ただでも暑いこの土地をもっと暑くし、ここはクアランプールだと言っているようです。アジアのマレー半島は確実に進化・進歩しています。日本なんか・・・と言ってるようです。
このタワーには伊勢丹デパートとスリアKLCCが併設され大きなショッピングモールを形成しています。



レストラン「スリ・マライユ」
夕食は150種のマレー料理が並ぶビュッフェで食べ、民族舞踊ショーが見れるレストラン「スリ・マライユ」へ。噂どおり大変な料理が並び、子羊の丸焼きも屋外に準備されています。大きなホールがあり、何百人も収容できそうです。ホテルから予約を入れて行きましたが客は4組で12名ほど、あの山ほどの料理は一体どうなるのでしょうか。踊りもマレーありインドあり中国ありでした。MIは壇上に上がって「卵入りの花束」を舞台の王様からもらっていましたが、帰りに忘れてきてしまいました。

翌日は、トランクをホテルに預け一泊旅行に出かけます。KULのプドゥラヤバスターミナルから高速バスでマラッカへ片道RM7.90の安さ2時間ほどで到着です。

マラッカ

7世紀頃から中国人が商売上の貿易基点としていましたが、14世紀に入りマレー半島のスパイスや金を求めてイスラム商人達が押し寄せ、この国のイスラム化が始まりました。14世紀にはパラメスワラのマラッカ王国が港湾都市として繁栄していました。
しかし、バアスコダガマの世界一周の航海の中でこの場所が見出され、1511年マラッカ王国はポルトガルの進出で滅亡してしまいます。その後英国とオランダで激しいくマラヤ国の争奪戦が繰り広げられ1824年停戦協定が結ばれてここは英国の支配下となりました。オランダはジャワにあった英国の植民地とマラヤを交換したのです。ですからボルネオの真中に直線の国境が引かれているのです。


キリスト教会
マラッカの中心がオランダ広場、その前に立つオランダ様式のマレーシアで最古のプロテスタント教会。小さい町なので、ここから全てが始まる感じでトライショー(人力車)がいっぱい待っていますし、観光客で賑わっています。脇にはマラッカ歴史博物館のスタダイスがあり売店が多くならんでいます。
売店の女の子もベールを・・


トライショー(自転車力車)
市内の移動はこれが一番、どこにでもRM10で行ってくれますが、二人乗るとおじさんも重そうで気の毒になり、登り坂では思わず降りてしまいます。気温と湿度が高い季節で歩くと汗だくになるのでこれがお薦めです。これに乗り「チェンフーティン寺院」や「ババニョニャヘリテイジ」を巡りました。
カンポン・クリン・モスクはスマトラ建築様式で、クリンとはインド系イスラム教徒の商人のことだそうです。


セント・ポール寺院
オランダ広場の脇から登れば、セントポールの丘に、崩れた教会の残骸があります。回りの壁だけを残していますが、1521年ポルトガル人によって建てられました。壁にはオランダ時代の墓碑が残っています。なかで青年が一人でギターを弾きながら歌を唄っており、我々が行くと、「サザンオールスターズ・渚のシンドバット」を唄いだしましたので思わず出演料(ティップ)を払ってしまいました。




ファモサ
セントポール寺院から北側に降りていくと、古びたゲートが残っていますが、1511年ポルトガルが作った要塞の一部です。激戦の爪あとが生なましく、朽ちるところを例のラッフルズ卿が保護したものです。
(参考:1919年イギリスのラッフルズ卿がジョホールのサルタンからシンガポールを譲り受けた時、この地は小さな漁村でした。)

このファモサの先に国立マラッカ独立宣言記念館があり、その中に日本占領に関するこんな説明文があるそうです。
Though the Japanese Military Administration had caused economic and social difficulties, it had to some extent brought about a radical political change in Malaya.
The Japanese victory over the British in such a short period(70days) had instilled awarness among the Malaya nationalists that the British colonialist were not as invincible as they were thought to be.
Altought the Japanese had surrendered,their occupation had left a mark inspiring the Malaya to continue their struggle for the independence of Malaya.
だから戦争が正しい訳ではありません。

リビエラ・ベイ・リゾートホテル
マラッカではここに宿泊、部屋は広くキッチンも付いていて快適です。市中からタクシーで$10、プールが中庭中央にあり、大勢の中国人の団体が泳いでいました。マラッカ海峡も良く見えます。世界の通過難所海峡と言われている海が目の前にあり、思ったより広い海道に見えますが、航海している大きな船にとっては厳しい所なのでしょう。それゆえマラッカはアジアと欧州を結ぶ海上ルートの重要な位置にあり、列強が眼の色変えてここに群がるのも無理の無いことでしょう。その上錫や金が取れれば誰でも欲しがったはずです。翌朝マカオのショッピングセンターを見学してから、KUL行きの高速バスに乗り戻りました。
再びクアランプール

KULのカリヤネカ
クラフト・コンプレックスが併設され、生活の歴史や織物が展示されていて、必見の場所と思いました。隣のショップには食料品から工芸品まで取り揃えてあり、一度に揃えるならここはいい場所と思いました。
 マレーシア最後の夜はワールドカップの対チェニジア戦があり、私はホテルで応援、MIは一人で街へ繰り出しました。全てのレストランのテレビはそれを中継し、山のような人だかりで、すごく盛り上がっていました。そして日本がチェニジアを退けるとヤンヤの喝采です。回りから祝福の拍手が沸きました。アジア人はアジアの国を自然と応援することがわかりました。もちろん近くにいた日本人は「これで安心して買い物が出来る」とか言っていたそうです。

最終日はムルデカ広場前の歴史博物館を見学、世界で4番目に高いKLタワーに登り、夕刻KUL飛行場へ行き、チェックイン後搭乗ゲート近くで「ツアーご一行様」を発見しドッキングしたのでした。皆さんはぐったりしてました。それにしてもなんでクアランプールの飛行場はあんなに寒いのでしょうか??南国特有のビッグサービスなんでしょうか??

つづくさあ、これからが本番の中東旅行が始まります