レバノン・シリヤ・ヨルダン 
中東に広がる古代遺跡の旅 2002年6月


KULを23:55に出発、10時間のフライトでカイロに経由1.5時間の休憩後1時間かけてレバノンの首都ベイルートへ早朝に到着しました。機内では外国人達が入国書類の書き方を真剣に教えあっていましたが、入国は緊張するのでしょう。古代遺跡巡りの始まりです。

レバノン編

ベイルート

ビザは空港で取得できるそうですが、後はお任せツアーの気楽なところで、のんびりと入国審査の順番を待ちます。

空港から最初にベイルートのウイナーハウスホテルへ行き朝食をいただいて出発です。


ベイルートの八百屋
気候は温暖で肥沃な土地、時の権力者はここを制覇したい願望を持ったのも無理はありません。「中東のスイス」とも言われ、岐阜県と同じ面積の小さい国家ですが東西の貿易の中継地点として繁栄しました。1975年から内戦があって物騒な国のイメージがありますが、人々はいたって親切でぼくとつでした。肥沃ですからて野菜は種類も豊富で形が大きい、レタス・・キャベツ・ジャガイモ・・茄子、何でもあります。



鳩の岩
この大きな岩の上から地中海に飛び込まないとベイルートでは男と言われないそうで、飛び降りたかどうかで価値が決まるらしい。市一番のビューポイントであるそうです。
この海岸に人々は集まり、談笑したり、ジョッキングしたりして人どおりが絶えません。最近までこの国の中で周辺国を巻き込んだ内戦が繰り広がれていた事を思うと胸が痛みます。




 アラビアンコーヒーメーカー(ターキッシュコーヒー)
路上でこれを売っています。飲んではみませんでしたが、美味しそうです・・・。中央から煙が出ているので中に火種を仕込んであるのでしょうか良く解りません。この地のコーヒーはとても濃くって良いのですが粉がそのまま入っているので最後まで飲むと大変なことになります。粉が沈殿した時に上澄みを啜ります。コーヒー好きのMIも砂糖が多く入っているので閉口していました。名前からして」オスマントルコが持ってきて置いていった産物でしょう。オーストリアのウイーンも同じでした。ガイドのシルビヤさん(多分マロン派キリスト教徒)



アラビヤパン(ホブス)を自転車で売りに来る
直径25cmくらい、このパンは中にゴマが入っていて香ばしく美味なものでした。この地域では食事には必ず大きさは違いますが、ホブスが山のように出てきます。食べきれないほど出すのが礼儀だそうですが、全部平らげたことはありませんでした。それでも必ずついてくる「フール」という豆をつぶしたペーストはどのパンにも合い、おいしく頂きました。

このパンは西はモロッコから東はアブガニスタンまで主食としてしてます。



売店食堂にあった釜?
この上で薄いパンもどきを焼くそうです。このときはお客もいないので開店休業でした

アラビア料理はサラダや前菜と一緒に豆や茄子をペースト状にした「フールやホンモス」がどこでも出てきましたがそれをホブスというパンに挟んで食べるわけです。このような鉄板で焼いたり、インドのナンの様に釜戸の内側で焼いたりもします。これら中東3国の中ではレバノンが一番気候が良いため作物も多く取れ美味しいものがたくさんあるのです。主菜はチキンや羊が多くもちろん豚を見ることは出来ません


切り出し途中の岩
何かの建物に使用しようとしましたが、切り出し途中で放り出した世界最大の加工された石灰岩だそうですが、目的は不明でただデカイだけ。ほんものは写真よりでかい感じです。

この石に触ると子宝に恵まれるそうです。ガイドのシルビヤさんにトライしてみたらと冗談に話し掛けましたら、二人の子供がいてるので、もう本当に結構ですと心の底からの返事でした



パールベック

ベイルート北東86km、ベーカー高原の中央に位置し2000年前から古代ローマの穀倉の都市として発展してきました。古代パレスチナの豊穣神パール礼拝の中心地であり、のちにはシリヤのハダト神にも
なります紀元60年頃ローマ帝国によってヘリオポリスと呼ばれた神殿群が建築され、2世紀に入って庭園や列柱廊が増築されました。
6本の大列柱(紀元60年)
神殿入り口は幅43m、51段の階段を登ると6角形の前庭の先に、天地を創造する最高神ジュピター神殿跡に立つ6本の列柱があります。高さ20mこの神殿を支えていたもので、パールベックの象徴、この大きさから神殿の巨大さが想像されます。神殿は奥行き105m幅70mの長方形で。円柱の直径はこのように2.2mもあり、1本の円柱は3つの部分からなりたち、それぞれの継ぎ目には青銅の杭がジョイントの役目をしていました。



バッカス神殿(3世紀、全体は135m×113m)
見る者を圧倒するこの神殿は私の知る限り最もよくその姿を残している神殿遺跡の一つです。3世紀のはじめに建てられ、幅36m奥行き69m、屋根は抜けていますが神殿の壁や列柱は往時の姿を十分残しています。バール神を奉り、4階建て高さ18mもあり、ネロ皇帝時代に作られた祭壇・生贄前の清めの場(洗礼プール)跡も残っています。地場の石灰岩のほか、エジプトのアスワンから輸入された赤御影石も一本柱に多く用いられています。
ライオンの梁
円柱54本に囲まれた神殿全体はアテネのパルテノンよりも壮大で、ローマ帝国最大の神殿遺跡の一つと言われています。そのうち回りに柵ができて中には入れなくなるのでしょうか。


バッカス神殿入り口(上の石が落ちませんか?)
パールとはもともとフェニキア人の信仰していた神で、ユダヤ教の「ヤホバ」に対峙する神としてカンナ地方で崇拝された異教徒の神として旧約聖書にも出てくるそうです。
ローマ帝国は200年以上かけて土着神とギリシャの神々を融合させます。
3世紀にはシリヤのアラブ人皇帝フィリップが六角形の前庭を造り、312年コンスタンティヌス大帝の時にはキリスト教が公式宗教となり、建物は教会となりました。
7世紀に東方からのアラブ軍の手に落ち、その後アラブの征服者はここを要塞都市として利用しました。





サンパレスレストランで食事
ファティ−ル:具の入ったパイを油で揚げたもの、揚げワンタン風です。
ホブス:ここのものはインドの「ナン」風でしっとり感覚でおいしい。
フルーツ:スイカが道端にごろごろしており定番として出されていた。
アラビアンコーヒー:案外どろっぽいので最後まで飲めないしろものが多かった



アンジャルの遺跡

アンジャル遺跡(714年〜715年造営)
8世紀にウマイヤ王朝のカリフワード1世の夏の保養地として造営されました。アイル・アル・ジャール(岩の泉)という名のごとく地下には水脈が今でも走り、周りの景色も緑の山をしたがえて環境の良いところです。ローマ風の区画やビザンチン様式の建築等が見られます。この街には600の商店と2つの宮殿、3の浴場と住宅地で形成されています。浴場の美しいタイルも多く残っていました。
ただパールベックを見たすぐ後の訪問だったので、如何しても感激が今ひとつでした。

16:45レバノン国境
17:35国境を越えシリヤへ入国

3.シリヤ編

ダマスカス

ダマスカスのホテルからの夜景
ホテル15階の展望レストランで夕食、カインがアベルに殺されたところ(人類最初の殺人)カシオン山の夜景を見ながらディナータイム。
ダマスカスは世界最古のオアシスであり、旧約聖書が書かれた時代から延々と4000年にわたり、様々な国々の支配や征服者の変遷の中にあって確固たる都市としての地位を不動のものにしてきました。地理的にみてもメソポタミア文明地域とナイル文明地域の中間にあり、またローマからも至近にであり、まさに東方からのシルクロードの西の基点として栄えて不思議でないロケーションなのです。逆にいえば、だからこの巨大なオアシスは大きな歴史の荒波に揉まれ続けてきたのでしょう。
朝の散歩を楽しむご婦人達 


ダマスカス市内でお水を売るおじさん
背負っている道具で器用にお水にフルーツを混ぜたものを振る舞っています。モロッコの水売りおじさんにも似ていますが、向こうの方が断然パフォーマンスが派手でした。
この地のお茶は濃いシャイ(紅茶)に砂糖をたっぷり入れて小さなグラス入れに甘くして飲む人が多いですが、ベトウィン達はミントティを良く飲みます。暑い地方ではこれが一番です。南欧の旅行者でアフリカを目指す人達は暑いときは熱いミントティを定番のように飲んでの喉の渇きを癒します。
右は移動に使った大型バスで冷房も良く効いていました。

翌日7:30出発一路パルミラを目指します。

休憩中に水たばこ(アルギーレ)
バスの途中休憩所にはレストランもどきがあり、トイレ休憩や水たばこが吸えます。
シリヤの歴史
BC3000年アラビヤ半島から来たセム語族が住む
BC4世紀アレキサンダー大王が支配
BC63年ローマ帝国が繁栄
AC7世紀メッカでイスラム教が興り、アラブ人が支配ビザンチンを駆逐
661年マライヤ王朝がダマスカスをイスラム帝国の首都
750年アッバース朝がおき首都をバクダッドに移す


11世紀に十字軍が各地に遠征
13世紀マムルーク朝が支配
16世紀オスマントルコが支配後第一次世界大戦まで続く

砂漠を行く現在のキャラバン


パルミラ遺跡

列柱道路とパルミラ全景
パルミラとはなつめ椰子の町というのが都市名の由来、たしかに椰子の木が多くありました。シリヤ砂漠の中に位置し「砂漠の花嫁」とも呼ばれています。海抜450m人口5万人の都市。BC700年〜つい5年前まで「アフカ温泉」が湧いていました。この水利の良さが都市を発達させ、シルクロードの重要中継地として栄えました。1世紀にローマがシリヤ全土を征服してから100年後にようやく属州となりました。ローマ管理下に置かれても税を課せられないなど特殊な関係でありました。有名なゼノビアの女王は267年〜271年ADここを治めました。当時北はトルコ、西はエジオプトまでゼノビアの勢力は拡大していました。フランスが1902年発掘に手を付けはじめ、現在ではは奈良大学も調査続行中です。

ベル神殿(1〜2世紀)
フェニキア首神の土着神ベル(セム語ではパール)豊穣の神で最高神をもあらわします。太陽神ヤヒポール、月神アグリポールの3神に捧げられた本殿、それを囲む列柱廊、生贄祭壇、そして宴会などに使われた祭事場によって形成されています。ここには1929年まで住居があり人々が生活していましたが、調査隊の発掘と補修作業のため、住居は別の地へ移つされました。

石と石の間に地震対策の青銅クサビが打たれています。





遺跡群からアラブ城砦
シリヤ砂漠はシリヤ面積の55%を責めます。実際には土もあり草も生えるので、羊の放牧も可能で、年間降水量200mm、夏でも朝晩は冷え込み冬は雪が降ることもあります。約1000万頭の羊が放牧されています。石油やリン鉱石も産出されます。

あんまり暑いので昼食後いったんホテルに戻り休憩後再び訪れました。右は「パルミラレストラン」での食事のメーンディッシュ「マサッハン」(チキンと玉ねぎ等を焼いたもの)

四面門(テトラピュロン)
ダマスカスの北東約230Km。世界でも有数の巨大な規模を誇るこの遺跡は1980年ユネスコの世界遺産に指定されました。タドモールの砂漠に忽然と現れるオアシスの隊商都市です。
1995年訪問した村山首相はこの遺産の修復に日本政府が協力することを約束しました。
四兄弟の墓 中は四階建て




砂漠を走る列車
ダマスカスへ戻る途中にこの列車と出くわしました。砂漠の真中に踏み切りがあります。まるで映画「アラビヤのローレンス」のトルコ軍の列車を爆発するシーンを思い出させます。特産の飼料を運んでいるとか・・・。



マアルーラ町

マアルーラ町の全景
アンチレバノン山脈の荒涼とした岩山の一角にイエスキリストが話していたと言われるアラム語が今も日常語として使われている有名な町です。
ダマスカスより北東60km、標高1720m

キリストが話した言語を聞くと、なにか気持ちが落ち着きます。不思議ですネ・・・。




聖サルキス教会
「マアルーラ」アラム語で入り口の意味、BC6Cからシリヤ一帯で使われていました。聖書の内2つ「ダニエル書」と「エズラ記」はアラム語で書かれているそうです。

バスが町外れに着くと、ごらんのように子供達がアラム語で歓迎の歌を唄ってくれるのです。別にチップをねだることも無く。これがすばらしい響きなのでした。



[再びダマスカス市内]

アナニヤ教会
エレサレムで迫害された初期キリスト教の人々がダマスカスに逃れ建てた小さな教会のうちの一つ、AD67年頃と言われています。現在の地下部分が当時の一階部分です。近くには聖ペテロが脱出したと言われている窓もあったのには驚きです。

ユダヤ教とキリスト教とイスラム教が入り混じる地です。

まっすぐの道
聖ペテロが神の手に導かれ盲目のまま聖アナニアに会った場所。古代ローマ時代ダマスカスにあった2本の列柱道路のうちの一つ、全長1・3km


この頃、パキスタンのテニス選手のクレシがイスラエルの選手とウインブルドンのテニストーナメントでダブルスでペアーを組んだことがイスラム教国のパキスタンでは問題になりました。微妙なものがこれらの国々には存在していることを理解しておかなければなりません。

スーク入口
パラダ川のほとりに砂漠のオアシスとして存在するダマスカスは紀元前2000年からアラビア半島、メソポタミア、地中海地方を結ぶ交易の中継点として存在し、1946年シリヤの首都になるまで4000年もの長い間激動の歴史が繰り返されてきました。その分このスークには歴史の凝縮があるはずです。

どの国へ行っても市場や地元民が集まる商店街はその国の本音が詰まっていて、観光地よりも楽しく感じます。ここもその一つであり、もっとゆっくりとしたい場所でした。



スークの店
     
スーク内の商店の一部、問題のアレッポ石鹸は種類が多くて一概には言えませんが、刻印入りが4個で$5が相場のようです。さらに町場の商店では10個で$6で売っていました。
我々は高いものを掴まされていたかも・・・反省。

アムゼ宮殿
18世紀当時ダマスカスの統治者であったアルアゼムが私宅として建てた宮殿、随所に「トルコ様式」や「ビザンチン」の影響が見られます。冬の宮殿、夏の宮殿、客用の建物が中庭を挟んで大きく3つに区分され、冬の宮殿には日が差し熱を逃さないようになっています。中庭の床は大理石と弦武石のモザイクになっており、夏は大理石の上を歩き、冬は弦武石の上を歩くと快適だそうです。結婚式の衣装などもありましたが、上げ底の履物があり昔履いたそうですが、日本でも最近流行したと思いますが歴史はきっちりと繰り返されている感じです。
ここで現地の学生達と一緒でしたが、彼ら彼女らは屈託が無く、いまは一夫一婦制が当たり前となり、高らかな笑い声を発していました。ここは自由行動でしたので彼らは館内を親切に説明をしてくれました。


ウマイヤド・モスク(715年)
イスラム教第4の聖地だけあって、ここに入る異教徒のご婦人方は右のような茶色のベールを借りて着用しなければいけません。たいそう暑いそうです。これが気に入ってイスラムに改宗した人がいたと言う話は聞いていません。
ウマイヤ朝時代715年に建てられた世界最古のモスクです。建築には10年かかりました。それまではイスラム教徒とキリスト教徒が同じ場所で祈りを捧げた時期もあったそうです。旧市街の中心にあり、イスラム各国からの巡礼者が絶えることが無いのです。この近くのレストランにはアルコールがありませんでした。ー旅行中ここだけでしたー



市内のアラビヤお菓子の職人さんたち
ホテルに着いてから再び市中に飛び出します。そこには人々が暮らす姿があふれています。人々は親切で明るくて素朴、生活のなかではイスラムもキリストも仏教もない感じ。やさしい人がいるだけです。お菓子屋やアイスクリーム屋は人気があって人だかりです。お菓子を選び食べてみるとすこぶる美味しい、甘すぎですが出来たては美味い。お菓子の職人さんに写真を頼むとみんな集まってきてこのとおりニコニコ顔です。





      
さまざまなお菓子が並んでいます。コナーファ・マッルーム・バクラバ・ワルバート??どれがどれ?

翌日ボスラに向かう途中ガソリンスタンドにラリー仕様車があったので聞いてみました。

ラリーカー(クライスラー&ランドローバー)
イギリス人のグループでプライベイトなラリーでタイトルが「ミッドナイトサン・レッドシーラリー」と銘打っていました。字の如く、スウェーデンから紅海まで23日かけて26チームで競っているそうです。それぞれの地区で「スペシャルステージ」を設けている本格派のようでした。ああ懐かしい・・・・。




今日はワールドカップ日本とトルコ戦の日です。バスの中にはテレビがあるので朝からみんなそわそわしています。現地時間で9:30キックオフです。最初からハイテンションな応援が続きましたが、一点を失うとすこし静かになり、しぶしぶ円形劇場の見学に行きました。帰ってくると試合はすでに終わり、日本の敗戦が知らされ一同がっかりでした。現地の人は同じモスリンであるトルコを応援しているようでした。

ボスラの円形劇場


本来カバタイ人の居住地、AD106年ローマ帝国アラビア属州の首都とされる。ビザンチン時代は聖地として、イスラム時代はメッカ巡礼の拠点、隊商都市として発達しました。

ローマ円形劇場
ローマ時代の劇場の中で最も完全に近い形で残っている遺構、イスラム時代(9C〜)要塞として使われ、外に城壁を築きかつ強化剤に覆われていたので保存状態が良い。城壁の外は堀があります。
収容人数6000人、半円形のオーケストラ部分がエコーポイント、舞台の高さ1m、幅40m奥ゆき8mコリント列柱で飾られている。最上部に列柱廊があり高さ20m直径102m、1848年当時2階部分まで土砂で埋もれていた。天井は布テントが張れる形状でした。


城壁まえで子供達が自然な「ご挨拶」をして通り過ぎて行きます。日本で最近こんなことがあっただろうか、思わず可愛いので写真をとらさせてもらいました。

さてさて楽しかったシリヤにさよならです。

11:50シリヤ側国境通過
12:50ヨルダン側国境通過

 つづく