ルーマニア国旗 ルー

ルーマニア民族とブルガリア民族には大きな違いがあります。ブルガリア人はジマール人種でハンガリー、フィンランド人、日本人と同類で言葉も似ています。ルーマニア人はラテン系の民族で言葉はイタリヤ、スペイン語と大変よく似ています。道路のマナーは大変よく横断歩道ではほとんどの車が止まってくれますし、ホーンを鳴らす車もほとんどいません。どこかの国とは違って歩行者優先を徹底しています。
「ラテンの血にスラブの感情が混ざった」と形容され、開放的な国民性と、かつて「バルカンのパリ」と称えられた首都ブカレストやドラキュラゆかりの地が惹きつける国。言葉はラテン語でイタリヤ語とスペイン語に大変近いものがあります。
国旗のウンチク:青、黄、赤の縦3色旗。青は黒海、黄は穀物の実り、赤は独立で流された血を表すといわれます。

こちらでも新聞に東北の地震のニュース「日本は復興が早い」と出ています。

正式名称 ルーマニア Romania
首都 ブカレスト 人口:約2,224万人 面積:約24万㎢
人種・民族 ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人、トルコ人、ロマ、その他
言語: ルーマニア語、ハンガリー語 通貨:新レウ
宗教: ルーマニア正教、ギリシア正教、ローマ・カトリック、その他
時差 時差は-7時間 サマータイム:4〜10月は-6時間


国境のドナウ川を越えてルーマニアへ。観光バスでの入国は乗客のパスポートをガイドがまとめてスタンプを押してもらうだけで入国できます。
まもなくEUに正式に加盟しこんな面倒なこともなくなるでしょう。
バスはそのまま入国し、ドライバーもガイドもそのままこの国の次の場所レストランまで同行します。ブカレストまでへ93KM、2時間30分でした。
レストランでポーランドのガイドが乗り込んできます。流暢な日本語を話す青年で、9年間父親の仕事関係で日本で生活した様子、勿論英語も話します。
昼食はかなりレトロなレストランで食事、とってもおいしくいただきました。スープはおおきなバケツもどきのボールに入って出てきました。メーンは食べ慣れた魚「メルルーサ」のフライ、おいしいポテトとレモンのそえものは、かなり良かった。




Restaurant Locanta Taristea
レトロな食器類   restaurant Taristea入り口
 大きなスープボール とんかつ??


シナイア近郊のアズガ村にてワイナリーを訪れます。ワインテイスティングなどして安いシャンペンを買っている人がいました。もともとドイツ人がつくったワイナリーであって、専門はスパークリングを得意とするところ現在は別の場所で作りここでは寝かすための場所と倉庫となっています。中は寒くて薄暗い、それ相当の値段だが600円のワインを飛行機で担いで日本までは帰りたくないです。

テイスティング ワイナリー倉庫


この日のホテル「PALACE SINAIA」はスイスの町にありそうなすばらしいリゾートホテル。敷地は公園になっていて、ロビーのあつらえも四ツ星にふさわしいものです。夕食にはデザートにチーズのフライが出たましがバカ馬、フライがこんない美味しいとは驚きです。メーンはルーマニア料理ロールキャベツ(サルマーレ)の小さいもの、まあおいしくいただきました。食事中BGMが流れていましたが、スピーカーが最悪でなにを演奏しているのか不明でした。

 HOTEL PALACE SINAIA
PALACE SINAIA エントランス ホテルの前庭
庭に咲いている花 ルーマニア料理ロールキャベツ(サルマーレ)


朝から雨模様、北部は洪水のようだった。ドラキュラ伝説のブラン城へ。ドラキュラのモデル、ヴラド3世の祖父が居城としたことからドラキュラ城として有名。場内には、地下牢や拷問の道具もあります。
15世紀にトランシルヴァニア地方を支配していたワラキア公ヴラド3世は、トルコ軍の兵士を串刺しにし、ヴラド・ツェペシュ(串刺し公)と恐れられ、ドラクル(悪魔)と語り伝えられることになりました。小説が有名になり、真実は後から作られたようなものです。

残念ながら雨がふっていてうすら寒い、子供たちが大勢やって来ている。遠足にはもってこいの場所なのかもしれない、ドラキュラはここには生涯で一度しか来ていない、彼のおじいさんがここに住んでいて、それが文学となったのでしょう。2m以上の大男だったようで飾ってある鎧の部位がとも相当でかい。

ブラン城
 
ブラン城壁 入り口  城内居室
 
中庭 案内役と  狭い階段

 この城下の売店で( ジェロビタ-ル)化粧品がありました。まずはゲットまます。


シギショアラ中世の街並みが色濃く残る【世界遺産】シギショアラへ。ドイツの入植者が築いた12世紀当時の街並みが残る城塞都市。旧市街の時計塔の前にドラキュラのモデル、ヴラド3世の生家(レストラン)で食事

昼食はシギョショアラ「ドラキュラレストラン」で食事。
アトラクションとしてドラキュラが来たり、太鼓躍りがやって来ました。
当然前菜はドラキュラサラダ(ケチャップかけ)です。
この店はドラキュラ(ブラド・ツェペシュ)が生まれた家だそうです。
14の世紀時計台
と店入口
ドラキュラ侯爵が
客の咽を噛んでくれる
メーンのチキングリル
太鼓叩きグループ
のアトラクション付き
ドラキュラ像 ドラキュラサラダ、ケチャップが血?


山上教会
雨が降ってきた。傘を差しながらの観光、山上協会の階段には屋根があり、こんなところで助かるとは思もいませんでした。時計台の入り口には子供たちで混雑、登ることはできませんでした。

階段入り口 山上教会への階段 これが名物 防衛塔14C
売店でファーマシーの場所を聞いたら新市街の下にあるとか、しばらく歩いて、
屋根付き道の下にAPICOLA店があり、ジョロビタールを手に入れました。2回目です。


ブラショフ
12世紀頃のトランシルヴァニア地方はハンガリーの統治下にあって、モンゴル軍に敗れたハンガリーは南東部の国境の防衛と土地活用のためドイツ人移民を招致して都市を造っていきました。
その後、オスマン帝国の侵略の脅威にドイツ移民たちが命を守るため避難場所として教会がどんどん要塞化されていきました。16世紀には約600もの要塞協会があったようで、現在残っている教会のうち7つが登録されています。

サスキズ要塞教会、バラがきれいに咲いていました。
英国のチャールズ皇太子は何度もルーマニアを訪れ、今は
トランシルヴァニアのヴィスクリに数件の民家を購入し、
観光事業の支援をしたいと考えているようです。
近所には彼が来たことのある場所やレストランが
評判になっているようです。それは彼の曾祖母のマリー女王が
ドラキュラのモデルとなった「ブラド・ツウェペシュ」と
血縁関係があるということなのですが・・・。

スファルトゥ広場

Restaurant Cerburl Carptin
歌姫がお出迎え スープ チキンフリッター
店の入り口 サラダが新鮮です 前菜:ソーセージとチーズ
民謡ダンスの始まり すごい量のグラス群・赤白飲み放題

黒の教会:1869年にブラショフがハプスブルクの
軍隊に攻められて、火事でこの教会も焼け、
こ外の壁が黒焦げになったことから
「黒の教会」と呼ばれるようになりました。
町の中心にスファルトゥイ広場
旧市庁舎はドイツ民族が作った。

聖ニコラエ教会
17世紀にワラキア公カンタクジノがこの地を訪れたのを記念して建立された僧院。
門から入り正面に見える大教会は、19世紀にドイツから招かれて
ルーマニア王国の国王になったカロル1世が建立したものです。
教会も館も立派なものです。ちょうどなにかのお祭りがあり多くの人がワインや
お供物をもって教会に集まっていました。それぞれのお供物を他人にさしあげると、
亡くなった人へ上げたことになり、それが供養になるそうです。
小麦をあまく煮て加工したもの「カリバ」をカップに入れて振る舞ってくれる、
おいしいものでした。これも供養かもしれない。

左側の門をくぐった所に古い教会があり、この教会は17世紀末にカンタクジノの跡を継いだブルンコヴェアヌ公が細部を増築した以外は、当時のまま保存されています。
教会の入り口に描かれたフレスコ画は必見です。
こっちが世界遺産とか説明があったが・・・。
天井と壁画がご覧のとおりすばらしい

ペレシェ城ルーマニア王室の夏の離宮で1875年築、

カレル一世がつくったお城でセンスが光る。王はドイツ出身で奥方はロシア人である。
当時は列強から王様を迎え国の安全を確保した。
この離宮をチャウシェスク大統領も利用したが、実際にはブカレストのキタ30kmの町に住んでいた。

ペレシュ城の中心館  子供たちが遠足に来ていて賑やか
 
 息子が造った小さなペリショール城1902年  レストランで昼食トゥキトゥーラ(豚肉料理)

ブカレスト旅の終わりに「バルカンの小パリ」と呼ばれた美しい街並みと、
国民の館など共産党時代の建築遺産が交錯する首都を観光
 凱旋門、第一次世界大戦の勝利記念  旧共産党本部
内乱で亡くなった人達のモニュメント
1989年12月22日4000人の市民が殺された。
騒動の中、無傷のクレツレスク教会

共産党本部から地下道が張り巡らせていて、逃げ道は200kmにおよぶそうです。

国民の館故チャウシェスク大統領が巨額の資金を投じて造った巨大な宮殿。
でかい、とにかくでかい、レンズ16mmでやっとだ。3100部屋33万㎡世界で2番目にでかい。
前面の「統一大通り」はパリのシャンゼリゼ通りの真似をして、6m幅がひろい、
どの時代にも権力者は箱ものを欲しがる。
彼もエレナ夫人と共に革命軍によって12月24日銃殺された。
数十年たてばこの建物も歴史的建造物になるかも知るれない。
どの城も宮殿も同じような道をたどってきているのだから。

悪評高いチャスカスカ大統領は実に演説がうまく、人心をコントロールする力がすぐれていて、
共産党員の中から頭角を現しました。
就任後は独自の経営判断でこの国の経済を発展させました。
2000万人の国民に対して8000万人分の食料生産を誇り、
よい時期には「欧州のパン屋」と言われたこともありました。
ソ連とも距離を置き、1900年のロスアンジェルスオリンピックにもソ連の反対を押し切り
当時東ヨーロッパから唯一参加しました。  
子供は3人いましたが一人は亡くなりあとの二人は国内で生きています。
年をとってから変な法律を作り出します。
私服を肥やしたり、1人当たり5人の子供を生む法律も作りました。
権力を握ると、最後は蜜の味が忘れられず、そして身内に分け前を与えて、裸の王様となる・・・。
それでもヨーロッパのパンやといわれた時代に生きた年寄り達は、
当時を懐かしく思う人も少なくないようです。


ミティティ(ルーマニア風ハンバーグ)♪夕食時にはルーマニアワイン付き

 定番のナショナルチームのユニフォーム 国営の化粧品 小さな空港からミュンヘン経由で帰国の途に

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