再びアフリカからヨーロッパへ帰ってきました。

 リスボンのコメルシオ広場
車をリスボン港に陸揚げしましたが、もうお金がないから食べ物も買えません。毎日、米を炊いて醤油だけの炒飯(チャーハン)の連続です。一路スペインは懐かしのマドリッドのラテンカンポへ行くことにしました。
マドリッドのYH(ユースホステル)で資金調達の為、私設ツアーを企画して、4人の日本人を2泊3日でパリまで運ぶ旅程を作成、すぐに話がまとまり即出発、軍資金がすこし貯まりました。途中アフリカで一緒だったフランス人のフランソア家を訪ね再会しました。彼は相変わらず海岸でサーフィンをやっていました。
無事ツアーはパリに到着、パリのYHで今度は二人の日本人を乗せストックホルムまでアルバイト探しのツアーです。この間いくつかの国境を越えるのですが、一番怖いのが車の保険書(グリーンカード)の提示を求められることです。ぜんぜん加入していませんでしたから、見つかれば加入費を取られますから・・・。でもノーチェックでした。保険より安全運転です。

 フレデリクスボー城
北シェラン島にあるルネッサンス様式の古城。
途中コペンハーゲンに立ち寄りましたが、有名な遊園地「チボリ」には金がないから入れません外から見るだけ、海岸の「人魚像」を見て出発しました。その後この地をMIと再度訪ね感慨にふけりました。勿論チボリの中に入り、子供電車に乗ったり食事もし、ゲームも楽しみました。

 ストックホルムの市庁舎
ストックホルムに着いてみると、「青年は荒野を目指す」の影響でしょうか、ソ連経由で多くの若い日本人が集まっていて、なかなか捜しても良い職もなさそうなのです。2人の日本人を下ろして再び一人でドイツへ逆もどりです。ハンブルグに着き、YHで情報交換です。ここではイスラエル人がこれから車(中古のフォード・タウナス)でアフリカを縦断して南アフリカに行くのでレクチャーしてくれとの事で、知っている情報を提供してあげました。無事に着いたのでしょうか?
さて、何軒目かでようやく中華料理屋でのアルバイトが決まりました。

 ハンブルグの「チィーナレストラン・チャン」のキッチンメンバー「ケン(日本人)・アラバ(ナイジェリア人)・スーリン(タイ人)・中央が私(小さいのではありません、しゃがんでいるのです)」
ハンブルグで駅前の「チーナレストラン・チャン」で皿洗いのアルバイトを開始、そのうちチーフコックやサブコックが次々と退職するにつれ、ついに自分がその店の調理長なりました。その店では泉KENさんにずいぶんお世話になりました。(その後彼は日本でキャノンに勤務していると聞きましたが、どこにいるのでしょうか、会いたいものです)この店のメンバーはマレーシア・ナイジェリア・ガーナ・タイ・ドイツ・香港出身等と国際色豊かで調理場の中では世界の言葉が飛び交っていました。従業員の食事も基本的には中国料理ですが、たまにはアフリカ料理もあったのでした。
そして、1971年12月28日に日本からMI が来ました。1年半ぶりの再開です。彼女は同じ店のガタローベ(クローク)でアルバイト、日本人の女性が珍しい事も手伝ってか、実入りが多く、チップ制なので毎日仕事が終わってから、小銭を数えるのが大変楽しみでした。ある時コートのボタンを付けてあげたところ、25マルクのチップを貰いました。翌年1972年の2月3日にハンブルグ日本領事館にめでたく婚姻届けを提出しました。

 ギリシャ・アテネ・パンテノンで1972年7月ツーショット
アテネにはその後1996年10月に再び訪ねました。
その時のツーショットはこちら
普段はがむしゃらに働いていましたので、1972年の夏にはオーナーから休暇を貰い、ヨーロッパ周遊の旅に出ました。ハンブルクから国道を南下して勿論ギリシャに置いてある部品の回収の目的もありましたが、豪華な新婚旅行だったかも知れません。もちろん当時はどこへ行っても日本人の団体旅行者は一人もいませんでしたからどこも静かでした。そのかわりたいした観光情報もなく、重要な遺跡とか歴史的な建造物とかはどれだかわかりません。ただ不思議な感動を抱きながらの旅をしていました。 アテネ近郊の海でキャンプ

 スイスSusten passの街道
休暇中に7号線を南下し、スイスを訪ねました。車の中で、目を覚ますと廻りはSusten pass, Switzerlandの壮大な景色でびっくり。イタリヤのベネチアをかすめ、アドリヤ海岸をユーゴ経由でギリシャへ、アテネで日本大使館に預けていた部品を受け取り、南部の海岸で荷物の整理、ずいぶんと部品を交換しました。また、海の美しいこと、 思い出の地です・・・。ところが最近世界地図を良く見たら、そのキャンプをしていた場所の名前がkato souniotとなっていたのにはびっくりしました。再度訪問する予定です。パッド・フィルター等を新部品に交換してフェリーでイタリヤに渡り「太陽高速道路」を北上します。 レマン湖のほとり

 サンピエトロ寺院
イタリヤではポンベイを見たり、ローマをうろうろしました。
バチカンはカソリックの総本山、なんだかわからず大きな教会のイメージでした。数年後再訪したときに、ガイドさんの話を聞いてみて、あらためてローマ帝国の偉大さに気が付きました。

 運河の跳ね橋
運河の町、アンネフランクの隠れ家が有名ですが工事中で中は入れませんでした。アムステルダム駅は東京駅のモデル、とにかく外国人が多い、ニューヨークより人種は多いと思います。多人種サラダボールの本命、人々も雑多なことに慣れている感じです。
ハシーシーが容認されているのはこの国だけかもしれません。それが自由というものですか・・・。

 ブリュッセルのグランドパレス
王宮のたたずまいが歴史を感じさせます。
こじんまりとした国と町、これでも結構な体力を持った国なのです。

 ヨーロッパ旅行中のランチ風景
この国はただ通過したのみです。
MIは結構料理が得意なので、食事は楽しい時間帯でした。
お米は簡単に手に入りましたので、ビネガで寿司飯にしたりしていました。
ヨーロッパ周遊後10月になり再びドイツを離れ、旅に出ることにしました。
パリなどを通過後カレーからドーバー海峡をフェリーで渡りイギリスへ・・・。この船でMIは初めて船酔いしていました。

 タワーブリッジ
冬のさなかに英国へ入国したので、この国は暗くて寒いイメージが残りました。安いホテルの暖房もほとんど効きませんでした。当時は経済も疲弊し大英帝国などとは言えない経済状態でした。それでもロンドンのテームズ川「開閉橋」を「デリカ」で通過したときは感激しました。ロンドンでは大英博物館見学が無料なので何日も通いました。また、市中での駐車禁止が厳しく、民間に委託し取り締まるのですが、何度も車のフロントガラスに違反キップが張られていましたが、違反切符の欄内に日本の車両ナンバーが入りきらないのでそのままで・・・もう時効でしょう。
仕事は簡単に見つかりましたが、数週間滞在した後、車をニューヨークへ輸送し、我々もアメリカへ・・・。新聞上で結構怪しげな格安航空券を販売案内していましたので、電話をし小さな事務所を訪ねて行きますと、現金先払いで小さな紙切れをくれました。飛行場でチケット受領なんて危なっかしい事でしたが、無事ゲットしてアメリカへ・・・。

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