AFRICA-3

ここからは一人旅の始まり
33.タンザニア

今日はここで宿泊

タンザニアに入国し、まもなくすると街道の左側に大きな山キリマンジェロが横たわります。最近ではテレビ等で良く見る景色ですが、登頂して得意げな人がいますが、現地では普通の観光コースであり、ちょっと体力があれば、たくさんの黒人の荷物運びをつれて頂上を極めることは難しいことではないでしょう。
キリマンジェロ
一路南下し、ここからはフランソワのVWとペアーで走ります。
次国の通貨は手前の国で両替するとレートが良いので手持ち通貨を申告したら、ザンビヤとの国境で次国の通貨を没収され、らちが開かきません、再びドドマの警察に戻り交渉の結果返還してもらいました。時間の無駄ですな・・・。
国境が時間で閉鎖されたため国境の町を彷徨い歩き、フランソアと二人で映画「ドクトル・ジバゴ」を見て大いに感激しました。

コース:ドドマ・イリンガ・国境


34.ザンビア
翌朝無事に国境を通過して、ザンビアに入国します。ジャングルがうっそうとした道を窪み避けながら進みます。すると道がなくなっています。なんらかの事情で大木が何本も折られて道を塞いでいます。象でも暴れたのかも知れません。

道がなくなっています。

夜寝ていると、時々ガサガサ・バリバリと草木の折れる音がし、象の鳴き声がしました。恐怖の一夜です。チョット道をはずせば象の群れをずいぶん見ることが出来ました。
首都のルサカ郊外にある日本大使館を訪ねましたが、ここの窓からの風景は正に「すばらしいの一言」です。でも、大使館の人はなんだか問題児を見る目でしたネ。
ビクトリアフォールズ
リビングストン手前50kmぐらいから、はるか遠くに高さ800mの水しぶきが見られました。高さ100mの滝は風速20kmの勢いがあり水飛沫を跳ね上げます。それが世界3大瀑布の一つビクトリアフォールズでした。ザンベジ川の畔でキャンプを張りましたが、川で洗濯をしていると一人の黒人の少女が突然現われて、香りの良い石鹸を貸してくれるのでした。
滝の前は暴風雨なみですので、裸になり石鹸を持っていき久しぶりの天然シャワーを浴びることができました。黒人最後の国です。ビクトリアフォールズ橋を渡ってローデシアへ行きます。

この写真は2007年6月に再び
MIとザンビア旅行の時に撮影し
たものです。1971年の撮影場所
と何となく記憶があり、帰国後調
べて見ると、左側に同じ木
があり、びっくり仰天しました。



コース:ムピカ・ムサカ・リビングストン国境


35.ローデシア(ジンバブエ)

出発前にエンジンオーバーホール

ローデシア側のイミグレーションにウイスキーの「ブラック&ホワイト」の看板がありましたが、失礼な事です。ここは白人の国でした。アパルトヘイトがありました。私は平気で白人用の施設を使いましたが問題は何も起こりませんでした。しかし隣の南アフリカはどうしても日本人は有色人種と言うことで、船での寄港はokだがビザはとうとう発給されませんでした。フランス人のフランソワは当然ビザが取れここで別れることになりました。彼の出発までは車のレースを観戦したり、農場を見学したりしてのんびりとすごしました。
フランソアとはここでお別れ
彼と再開を約束して別れたあとは、当時唯一在住していた日本人「高木三郎翁(当時78歳、65歳の時この国へ来た)」と親しくなります。毎日のように「チェス」に興じ、手作りの食事「鶏の水炊き」をご馳走になり、やがてはここの国に留まったらどうかと誘われました。彼は昔ニューカレドニアで貿易を担当していたそうで、今はこの国で大豆を作り、日本に輸出することが「夢」だと盛んに論じていました。その後、日本へ帰国し彼が現地で亡くなったことを知り、さびしい思いをさせられました・・・合掌。その後この国も独立して国名が変わりました。
ここで日本の両親に軍資金の援助を頼み、MIに奔走してもらいドルを送金してもらいました。現地には当然口座も有りませんから、高木氏のをお借りして、無事にドル受け取り、モザンビークから船でポルトガルまで行くことにしました。

コース:フラワーヨ・ソルスベリィ(ハラーレ)・国境


36.モザンビーク
今日はこの村に泊めてもらいます。
陸路国境を越えてモザンビーク入国です。
途中動物やらがいますので小さな村の広場でキャンプをお願いします。みなさん大変親切でウエルカムでした。その代わり村中から隣の村人までが大勢押しかけ私を観察しだしますので覚悟が必要となります。そして村長さんが現れたりして食べ物をくれたりします。
首都ベイラに無事到着し、街中を散策していますと、品のある東洋人が近づいてきてしばし歓談すると、この街で電気屋を経営しているとか、なるべく安い船を捜す間、彼が経営する店でしばらくアルバイトをすることになりました。
商品のほとんどはメイドインポルトガルでした。あまり立派なものではありません。

店裏の工場には溶接機やさまざまな工具がそろっていました。また地元人で溶接のベテランがいましたので勉強もできました。おかげで車の整備もかなり出来ました。エンジンのバルブも新しいものに交換したりして万全です。

ここのBOSSはラリーが好きで、彼のフォードを一緒に改造してやったりしましたが、成績は今一でした。一緒に働いていたポルトガルの若者二人もバイクが好きで、毎週トライアルに参加し整備や応援をガヤガヤとやらかしたり映画にいったり楽しい生活送りました。

ある時は新聞記者のインタビューに答えたりしました。これがその時の新聞です。
「NOTICIAS BEIRA−Quarta-feira,30 de Junho 1971」となっています。日本のMIに送りましたが、さぞかし驚いたことでしょう。
ただ金がないので毎日ばかり食べていました。
オートキャンプ場では日本からMIの手紙も受け取ることが出来、やっとポルトガルの船を予約し再びヨーロッパへ向かいます。3週間の船旅です。
その後この国も政変が起きました。彼の商売の方はどうなったのでしょうか心配です。良い奴だった。


コース:マニカ・ベイラ

37.南アフリカ
テーブルマンテンからライオンズヘッド
ケープタウンのテーブルマンテンを海から見た事は、なんと幸せなことか、あんな景色はそんなにありませんよ。
寄港中に、日本領事館を訪ねたら歓迎してくれました。船の中が暇だと話しましたら、1ヶ月分の新聞を頂き、船室でむさぼり読み、随分日本のことを思い出すことが出来ました。ケープタウンは最近では日本人が多いようですがきれいな街でした。

ジンバエブ、モザンビーク、南アフリカの三国は気候がすばらしく、穀物も良く採れ列強が何時までも離したがらなかったのが良くわかります。今はそれぞれが独立しましたが、本当にすばらしい国々でした。



38.アンゴラ
元ポルトガル領のロビト港では多くの野菜や食料が積み込まれます。船の中での食事は盛りだくさんで、席は毎日決まっていますので、まわりの人達とすぐ友達になれます。が、ある日私の前の席に花が飾ってありました。ここに座っていたおじさんが亡くなったそうです。この場合遺体はリスボンまで運んでいきましたが、私の前の席はその後毎日花が飾られていました。
船に積み込んだ私の車はデッキにありましたので、車の座席に座り新聞をゆっくり読んだものです。
どこでもダンスが・・・。






39.セネガル
寄港地ダカールでは皆で街へ散策へ出かけ大騒ぎ・・・。


40.カナリヤ諸島ラスパラナスの海洋には多くの日本の漁船が見える。ここで見る船の日の丸は特別うれしい。ここはタックスフリーの島なので物価が安い。寄港地の中で美しさは最高。白い壁、オレンジの屋根、白浜にヨット・・・白人達のパラダイス。
ここで真っ黒に日焼け、本当に黒くなります。売店のインド人もびっくりするくらい「おまえは日本人ではない」と冗談が飛ぶ。翌日マデイラのファンシールに寄港したが、町並みが美しくまさにパノラマの世界だ。
翌日いよいよ再びヨーロッパ上陸です。