
モナプティ
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タンジールの市場
写真を撮るとイスラムの人は怒りました。
フェリーに車を積み込み、数時間でアフリカへ上陸しました。北部は地中海気候で南部は砂漠地帯、さまざまな文化が入りまじり、日本のチャーハンに似たライス(クスクス)もありおもしろい、いろんな顔顔、複雑な雰囲気をかもし出している国です。
タンジールの市場スークは広く長く、今自分は何処にいるのかわからなくなるほど長く続いています。大きさではイスタンブールの市場グランドバザールに一歩ゆずるとしても・・・大きい。
地中海沿いの街道は舗装され快適で、しかも一面 オレンジ畑、食べ放題で久しぶりにビタミンCの補給をしました。街中で売っているオレンジも、外側の皮を剥いて、中のジュースを飲むだけという豪快なものでした。 迷子のらくだ
コース:タンジール・フェス・ウジタ・国境

 インサ-ラまで421km
そして、ここは地の果てアルジェリア(現アルザジャイル)へ入国です。フランスとの「アルジェの戦い」の爪 痕もいたいたしく残る町並み。ビルのあちらこちらに弾丸の痕があります。また、結構皆運転が荒く、アルジェ公園の角に駐車しておいたらトラックが車をこすった。警官を呼んで文句を言ったら 「駐車禁止場所に駐車しているから悪い」との事、言わわれりゃそのとおりかもしれない、国によって法律も違うもんだ。
大きな都市なのでカスバの真ん中のホテルに部屋をとりました。なんたってこれがこの世の見納めかも知れないし、これからの行き先に文明があるのかどうかも解らないし、大盤振る舞いです。これが「ビデ」かとかいって水を出したりして、フランス文化に触れたりしていた。

砂漠の入り口
ここでスペインのカンポからいっしょだった日本人連中ともお別れ、食料・水・ガソリンを補給し、いよいよ最大の難所、サハラ砂漠へ突入する。
途中ガルダイヤの町では野菜や食糧が豊富にありチョット安心しましたが、ここが最後で以降はどんどん未開の地となっていくのです。
朝夕は寒くなりますが、昼間はバリバリの天気が続きます。この地方には天気予報があるのだろうか?
 いよいよサハラ砂漠です。
ガソリン約200リットルの用意、アルジェから南へまっしぐら。インサーラまで来ると、ぞくぞくするような砂漠地帯、道路もところどころ砂に埋まって見分けがつかず緊張が高まります。インサーラは砂漠のオアシス、野菜も小さくなりますが、水だけは豊富です。ここからが本場。タマンラセットに向かいます。道路らしきものはもうありません。だが4Km毎に高さ5.6mのポールがたっており、目印ははっきりとつかめます。目標が何にもなくては走れません。何度も何度も砂に埋まりながら先へ進みます。車に積んだ物資の重さがつら い、パンクもよくする。タイヤが砂に埋まり、車体が亀の子状態になりストップすること何十回。そのたび砂を取り出し、後ろから車を押して脱出する。だんだんドライブにも慣れてくるが、白い砂は硬くてOK、土色の砂は柔らかいのでスタックする。あっちこっちの砂を選んで走行します。やっとタマンラセットに着き一安心、ここで英気を養ってと思いきや・・・・ついに私がダウン。isaoがさかんに「おかゆ」を作ってくれる、頑張らなければ・・多分マラリヤだろう。熱があって、あの暑い砂漠の中で寒気がしました。幸いにも数日で回復し、自家発電機でバッテリーを充電したり、オイル交換をしたり、パンクを直したり、全てのガソリン用タンク(180L)を満タンにして出発です。 右はベルベル族ではなく私です。
この先ニジェール内の町アガデスまで900Kmガソリンスタンドなしの大砂漠無事乗り越えられるのか??
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ALGER 1930km
EL・GOLEA 980km
IN・SALAH 581km
TAMANRASSET 119km
AGADES 1019km
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DU HOGGAR |
  砂堀りに疲れるとこんな風になります。
途中「わだち」があっちへこっちへと変化し、その跡を見失う事しばしば、どっちが国境かわからなくなりました。そしてああ困った、国境手前で車がエンスト、セルモーターが廻らない。つまり、エンジンがかからない。いろいろチェックするが、不明・・あせりが出てきて、ここでこの旅行もここまでかとあきらめた。二人で肩を落として途方にくれる・・。周りはなんにもない砂漠・・・。車もぜんぜん通らない・・・。電話もない・・・。落ち着いて良く考えよう、セル モーターが動かないのはセルが悪いの結論、当たりまえだのクラッカー。isaoがセルを分解してみると、なんとセルの中が砂でいっぱいだ。そして、この砂を取りのぞいたら、廻る廻る、走る走るバンザイだ。簡単なもんだとか言って走り出す。そしてようやく国境へ、ここではノーチェックですが警備兵と水だけはありました。水は地下からチョロチョロ湧き出していますが不思議です。近くには人も住んでいますが、あるのは水と駱駝だけ、どうして生活してるのでしょうか?。このころから少し知恵が出てきまして、日の出直前に走り出しました。朝早くは地面が湿っているので硬いからです。ドイツからアフリカ中部に出稼ぎに行くミュージッシャンと同行し、お互いに助け合い進むことにしました。 同行したクルー
コース:ワーラン・ウシダ・アルジェ(アルジャザイル)・ガルダイヤ・アルマニヤ・インサラ・タマンラセット・国境

 砂漠では車よりラクダの方がらくだ?!。
国境から100キロ久しぶりに人の居る村アガデスの町に入りましたが途端にガス欠、間一髪です。タンクをもってガソリンスタンドまで走り出しました。ここでは何日ぶりかでホテルに宿泊、シャワーにゆっくり浸かりリッチな気分でした。
この間、距離は900kmほど有り全て砂漠でした。この経験からすれば
1.伴走車なしの バイクでの縦断は無理です(ガソリンの積載量が問題です)。2.自転車・リヤカー・徒歩での補給なし単独縦断は不可能だと思います。水なしでは生きていけません。ただ幸運にも次々と水や食料を恵んでくれる人が現われれば別でしょうが、成功した人がいるそうで・・・神がかりなお話です。
砂漠で迷子のロバ
アガデスの町を後にし、今度は洗濯板状態道路を走ります。ところが、や
サハラ砂漠に枯れた井戸がありました。
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ややや、首都ニアメイへ向かう途中OILメーターが異常値を示しています・・・わーお・・・エンジンオイルが空っぽだ。車の後方は排気ガスで真っ白(砂塵でわからなかった)・・・・頭の中も真っ白・・・オイルが抜け完全にエンジンが焼けている状態。しばらくはオイル垂れ流しで白煙を吐きながらボロボロ走行です。後で聞きましたが、ここで相当の車がやられるそうです。空気の取り入れ口から細かい砂(これが異常に硬い)が入り込みエアーフィルターを通過しやられるようです。途中から同行することになるフランス人のフランソワのVWバンもやられてピストンを交換していました。現地のトラックはほとんどが「オイル入りのエアークリーナー」を装備していました。しかも空気の取り入れ口は車の屋根の上です。
さて、VWはエンジンの脱着が非常に簡単で、クラッチ盤と4本のボルトでホールドしてるだけ。またエンジンヘッドも空冷ですからシリンダーも単体で交換できるシステムです。これには感心させられました。細かいマニアルがあれば、しろうとでもエンジン交換可能です。進歩してました。
 ニアメイ着:エンジンはボロボロでした。
やっとの思いで、ニアメイ到着です。ここでは中国系(ベトナム生まれ)のフランス人家 族にお世話になり、一軒家を貸してくれ、また食事も随分ご馳走になりました。招待の食事が終わった後にもう一度パンと フォマージュ(チーズ)が出るので、それまで食べ尽くしました。奥様のピヤノ演奏にはうっとりしたものです。彼らは中国料理店を経営していて裕福でしたが、「味の素」が手に入らないので苦労していました。その間、車の整備をしましたが、オイル上がりは間違いなさそうです。部品はないし・・・。
その後革命が起ましたが彼らはどうなったのでしょうか・・・。
コース:アサマッカ・アガデス・タウア・ドソ・ニアメイ・ドソ国境

川で洗濯&橋がない
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「どうする・・・」相談するisao&ore
いまの国名はペナン、いつのまにか国名が変わっています。砂漠にくらべれば緑が多く、また何処にでもオオトカゲがいっぱい元気に走っています。爬虫類マニアにはたまらないところでしょう。
ナイジェリアへ行くのに、ここでビザ発給を待ちます。何台かの旅行者の車が海岸でキャンプしながら待機しますが、ナイジェリヤ国内で内乱が続き、ドイツ・フランス・イギリス・オーストリヤ・日本どの国民にもなかなかビザが下りません。毎日海で泳いだり、ハシーシーを吸ったりして時を待つけど・・・だめか・・・。仕方なく、エンジンオーバーホールの為この周辺国では唯一日本大使館のあるガーナへ行きます。
コース:バクラー・ボロトノブ・コトヌー・国境


入国審査では税関で当然たばこの本数や、酒の持ち物の検査がありますが。この国の入国審査では「アルコールを持っていますか?タバコを持っていますか?」は「それを私にください」の意味もあるのです。
ドライブ途中の井戸、これは飲めませんでした。
水道らしい蛇口が付いている水は全てそのまま飲みましたが、ここの井戸水だけは飲料としては利用できませんでした。
コース:ロメ

再び、慣れた左側通行の国。当然元イギリス領。日本大使館の書記官にここの伊藤忠商事の紹介で「トヨタ」組み立て工場へ車をもちこんで、見てもらったらピストンブレイク、日本に連絡して部品を送って貰う事にしました。ボアアップです。部品が届くのに数週間かかります。
YMCAに宿を確保し、しばらくは滞在です。部屋の窓から手の届くところにマンゴウが鈴なりですが誰も食べません。
しかし、毎日ココナツオイルを使った料理には閉口しました。
 日本大使館の車で日本国の宣伝旅行をしました。
首都のアクラでは日本大使館に「新年パーティー」の招待を受けたり、外交官個人の家に招待されたり、楽しい日々がありました。
また、大使館から依頼され、映写機とフイルムを古い四輪駆動車「ニッサンパトロール」に積み込み、黒人のドライバー、アントニーと三人でガーナ北部の学校生徒に、日本国の宣伝旅行に出かけました。食料もたっぷり頂きgoodなアルバイトです。目的の村の学校に着くと校庭にスクリーンを張り、日本の宣伝映画を放映、拍手喝采で終わります。その学校近くの適当な場所に宿を確保し、翌朝は別な村を目指して進みます。各学校では結構歓迎され、食事やお茶の接待、宿まで提供してくれたり、生徒さんたちと同じ給食を食べたり、地元の多くの酋長さん達?にも挨拶できました。スキー映画の場面では「どうやってコンクリートの上を滑るのか?」との珍門あり。陸上競技場面では選手たちの応援合戦が始まり大盛況であった。
その後isaoは技術があるので日産のガーナ工場でアルバイト、黒人の社員達は熱心に作業振りを見ていた
ガーナ首都アクラにある野口英世銅像前で
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そうです。そして、やっと、部品が日本から届いてパッケージを開けてびっくり、ピストンの1個がサイズ違いで再度部品を発注、一週間後やっと工場で修理開始、無事完了して、ガーナの皆様に挨拶し、再び長い旅へと出発できました。ここでは本当に日本大使館の皆さんに親切にしていただき感謝する次第です。
再び、ペナンに着いてナイジェリアのビザを申請しましたが、答えは「NO!」国内で内乱が激しく誰も行くことは出来ませんでした。怪しい人物がヴィザの闇買いを紹介され国境まで行ったが入国出来ずに戻って来た。他のメンバー車を売り帰国した。
その海岸で知り合ったVWバンで旅行中のにフランソア(仏)とこれから同行することにし、貨客船でカメルーンへ行く事にしました。彼はキャリーに大きなサーフボードを積んでいて、南アフリカの海岸ジェフリーズベイ(ここはサーファーにとってのメッカとか)でサーフをするのが夢だとか、語っていました。
ナイジェリア国内で「ビアフラの内戦」
1967年5月30日 ナイジェリア東部州政府がビアフラ共和国として独立宣言
1967年7月6日 ナイジェリアが東部州に宣戦布告
1970年1月11日 ビアフラ共和国がナイジェリアに降伏し終戦
 ペナン港で車を船積しカメルーンへ
船賃は容積と重量で値段が決まりますが、車の屋根には大きな鉄骨キャリーを付けており高くなりますが、幸いなことにカルネドパッセージ(車のパスポート)には改造前の日本での車検どおりの「重量」と「高さ・幅・長さ」が記入されています。その数値で料金を計算しますので、多少廉価で乗船出来ました。
4日間の船旅です。
車158$、人間2人で90$です。
スウェーデン籍の貨客船で、毎日の食事はフルコースで船長や機関長と同席し、久しぶりに(否、生まれて初めて)リッチな食事と親切な男のもてなしを受け感謝しました。 船舶の上級管理者の夫人たちは船が着く予定港に飛行機で先回りして待っているというシステムです。さすが先進国の労務管理は凄いと感心することしきりでした。クルーとは数日のお付き合いでしたが、皆ナイスガイで、下船に際してはバスタオルや食料のプレゼントをいっぱい頂きうれしい限りでした。
カメルーンのドゥワラへ。

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