アテネ・パルテノン下 第一段階の中近東を無事通過し、ヨーロッパに入りました。アテネはヨーロッパで唯一三菱自動車のデーラーのある国です。不足の部品を調達します。そして、バザールで大きな金属製の箱を買ってきて、その中に約30キロ程の当面不要なパーツを詰め込み、日本大使館に預かりをお願いしたところ、心良く引き受けてくれました。箱の表にはペンキで「持ち主と中身の説明と一年後に取りに来るからお願いします」と書き込みました。そして一年後アフリカを廻った後、今度はMIと一緒にこの大使館を訪ね、パーツを無事回収したのでした。 いよいよ欧州です。太陽がキラキラと輝き白壁が映える。観光国だけにあまり周りを気にしない普段着の国。海もきれいで海水浴をいたるところでしています。我々もドブンです。海岸にはなぜか天然無花果(イチジク)が多く、泳いではビタミン?の補給をしました。この国ではカフェーではコーヒーのことを「ネスカフェ」と言い、注文すると本当にインスタントコーヒーとお湯が出てきました。街中に歴史の教科書に出てくる紀元前の建物がごろごろあるのでびっくりしました。みどころは教科書にあったパルテノンで、これには感激でした。日本国産車も多く見られ、ようやく右側通行に慣れたと思ったら、トヨタハイエースが向こうから来るものだから、おもわず左側通行になり慌てたことがありました。こっちが左に行くと向うもこちら側に向かってくるのですが・・あたりまえです。特に信号で左折の時一瞬どこへ行けば良いのか難しい場面もありました。 アテネは市内のユースホステルに宿泊、世界中から貧乏旅行をしている若者であふれんばかりでごった返していました。廊下にも多くの旅行者がゴロゴロ寝ています。皆がこんな仲間なら戦争もないものを・・・。 コース:カハラ・テサロニキ・ラーリサ・アテネ・テサロノキ・E75号・国境 モーニングコーヒー アルバニヤ経由が近いのですが、当時は共産圏の国で通行不可能です。アテネからテサロニキまで戻りマケドニヤに入ります。以前はユーゴ連邦という、同じ国でしたが、ソ連崩壊後、それぞれの国が分裂独立をしたため、現在では新たな国境が出来ています。NATO軍との戦争はありましたが、人々の心の奥には良き時代のあの優しさが残っていることを期待したいものです。 美しい山々が続く、のどかな農村地帯が懐かしい・・・道も大変整備されていました。久しぶりのレストランでは美味しい魚(すずき?)が食べられました。ただ単に塩焼きしてレモンをかけたものですが、オリーブ油と絶妙なハーモニィをかもし出していました。 コース:ネコティノ・スコピエ・国境(国境と書いていますが、当時は同じユーゴの国、ボーダーはありませんでした 美しい道が続きます なんと恐ろしい事が起きたのでしょうか。当時この地はカルデラが多く、とても絵になる街道が続いていましたのに・・・。道端で食事をしていると、とおりかかった馬荷車の農夫が笑顔と共に大きな「キュウリ」をいっぱいくれました。キュウリは味噌をつけて食べることしか知りませんでしたから、生で少し食べ、気持ちだけ頂いて、残念ながら残りは捨てしまいました。この辺りでは多くのヨーロッパ人のヒッチハイカーが現われます。気楽に乗せて、情報集めです。 コース:ブリシュテナ 国境での入国手続き 一度訪ねたらわかると思いますが、私の大好きな国の一つです。何族人か知れませんが、人懐っこい、なんと美しい国、山もきれい、海も蒼く、空には白い雲、人々もヨーロッパ系で美しい。共産圏の国なのに、旅人を寛大に受け入れてくれる素敵な国でした。 この国の元の名前はユーゴスラヴィア、それらをまとめ上げたチトー大統領はすごい人物だと思いました。数年後、我が息子が誕生したおりに関連した名前(トーチ)を付けました。そんなに良い国がどうして民族紛争を???歴史は繰り返される魔物なのでしょうか・・・。 コース:ボドコリツア 美しい山岳地帯と海が続く国、風光明びな街道でした。住民は人なつっこく、何でも興味を示しました。再度この国を訪れたとき、MIがレストランの外にあるトイレに行こうとすると、近くにいた人たちが大勢ついて来ました。もちろんドアを閉め用をたしてドアーを開けると、そこには先ほどの倍近い人たちがに待っていたそうです。そんな国でしたが・・・。 コース:トレビニエ ドブロヴィニクの町 ドブロヴィニクのなんと美しいことか、要塞に囲まれた赤レンガの家並みと紺碧のアドリア海との絶妙なコントラスまさに「絵画」の世界です。 町と城壁のマッチングが良くて、しばらくは滞在したい町がたくさんありました。こぎれいな安宿もいたるところにあり「Zimmer frei(空き部屋有)」とドイツ語で書かれていますので、いかにドイツ人旅行者が多いのかわかります。城壁の海にはたくさんの若者達が泳いでいました。 コース:ブロチェ イタリヤへの通過道、カルデラは美しいが、食物の採れにくい地殻だそうです。 このあたりも欧州の若者が気楽にヒッチハイクで訪れる場所ですので、多くのハイカーを乗せました。色々な情報が入ります。安宿・良いレート・国境の通過難度・アルバイト等のニュースが舞い込むのです。 もちろんその国の話なども聞けるのです。それでも欧州のハイカー達は残念ながら日本のことを知りませんでした。 大抵のひとは日本は中国の一地方との認識でした。 まだ、SONYもHONDAもTOYOTAも知られてなかったのです。 ポンベイの遺跡 明るく陽気な人々。バカンスを楽しもうとする人でシーズンは国道が車でいっぱいです。ところどころでパンクしている小さなフィアットが多く、スペアータイヤなしの車はギブアップ、何度かその修理をしてあげましたが、お礼として高額紙幣を頂きおどろきました。相変わらずのインフレでした。修理している間中、言葉が分らないのに話続けるのには驚きました。 太陽道路と言われている快適なハイウェイ・・・。真っ赤なフェラーリーがぶっ飛ばしていきます。 トラックの背中には速度制限の時速数が入っています。守っている車は少ないですが・・・。 シェーンブルグン宮殿の庭 初めて、海外に車を持ち出して感じたのは、カーライフのあり方が欧米に比べて、日本は相当遅れていたことです。日本ではキャンピングカーなるものも見ることが出来ませんでしたし、今のようなカー用品の店は本当に少数でした。また、アウトドアーにしても彼らは日常的な出来事なのに、我々日本では非日常的な事だったのです。日本では、キャンプに行けば「圧力式石油コンロ」が幅を利かせていましたが、欧州では、すでにコンパクトな「ガスボンベ」が主流でした。無知だったのかも知れませんが、彼等のキャンピングカーの中に「水道と流し台とガスコンロ」があるのには驚いてしまいました。まったくのカルチャーショックです。そこで見た「ガスボンベ」が欲しくて、ついにオーストリヤのウイーンまで寄り道をして買いに行きました。ボンベを手にして、つくづく文明の利器とは良いものだとISAOと喜んだものです。当たり前ですがマッチ一本で火が起きるのですから・・・。 ハンブルク駅 アウトバーン本番の国、最高速度は無制限ですから、さすが飛ばす飛ばす、ベンツやポルシェが150Kmで走る。でもマナーはどこかの国によりよっぽどいいですね。世界中で多くの旅行者と会いますが圧倒的に多いのがドイツ人です。車もドイツ車が幅を利かせていました。ですから貧乏旅行には理解があり親切にしてくれました。ある時、車中で寝て、起きてみるとフロントガラスに50マルク札が手紙と供に張り付いていました。手紙には「楽しい旅行をしてください」と、なんと嬉しいことでしょうか。 ユースホステルも発祥地だけに多く有り、中身も充実していました。このときはドイツは通過しましたが、一年後この国のハンブルグの中華料理店で長期にわたりアルバイトをし、旅行費用を稼ぎました。 フランスからスペインへ 一般の国道で110/kmOKの国はここだけでした。
自由の国のはしりだけあって、個人主義が進んでいます。人種差別感のない国はオランダとこの国がベストかもネ。他人に干渉しないし、されない。だから外国人はフランス語が通じなくても旅がしやすい。ルーブル美術館・ベルサイユ宮殿・エッフェル塔・コンコルド広場・シャンゼリゼ通り等はやっぱり世界一だろうと思ってしまいます。何度来ても興味の尽きない楽しみのある国です。
一度スペインまで行き、再度「ブドウ刈り」のアルバイトをするためにフランスのボルドーへもどりました。
ボルドーはブリジッドバルドーの出身地だそうです。幸い「シャトーメイネイ」というところでバイトが見つかり一安心。isaoは、従業員はワインがいつでも飲み放題ということで大変ご機嫌です。仕事は二人一組で高さ1メートル足らずのブドウの木を挟んで、向こうとこちらで鋏で実を刈り取って行きます。小さ
な手籠が一杯になりますと、おおきな籠をしょった「ビデ」と呼ばれるおじさんを呼び、その大きな籠に刈り取ったブドウを投げ入れます。「ビデ」はトラクターまでそれを運び荷台の中に投げ入れます。何組かでこの作業をするわけですが、最初に終了したグループは最後のグループが終了するまで休んでいられます。だから、遅いグループは一列が終わるとすぐに次の作業がはじまってしまうシステムなのです。仕事の速い人はゆっくり休むことが出来るシステムでした。スペイン北部の人たちや、フランスの片田舎の人たちが家族ぐるみで働いていました。彼らは私たちを見て「宿無し」と表現し、いく度目かの説明で、やっと「旅行者」なんだと理解してくれました。 シャトーメイネイのオーナーと 3週間ばかり時を過ごし、資金も出来たので再度スペインを経由してアフリカへ向かいます。そこで知り合った3人の日本人とアルジェまで道ずれでした。彼らはその後どうしたんでしょうか・・・・
モナコ海岸道路 海岸に広がる別世界の国、グレースケリーは本当にここに住んでいるのかなと思いました? ここでF1レースが開かれるとは、山坂カーブが多く危険すぎる感じでした。 海岸は本物のコバルトブルーです。 マドリッドの「ノミの市」
生活費も安いし、タバコも安い、空気もきれい、町並みも古風で良い、人々もあまりでかくない、マドリッドはロングステイに便利な国です。だから、郊外の公園カサデ・カンポのユースホステルには貧乏旅行をしている人で溢れかえっていました。今でもそうなのかな・・・(その後閉鎖されたそうです)。でも若い人がむんむんしているのもいいもんです。当時「しゃれ」で番長制度を作ったりしましたが、その後フランスに「ぶどう狩り」のアルバイトをしに行き、再び帰って来ましたら、番長が何代目かに代わっていたのには驚きでした。ここでは西から東から北から南からと、旅をしてきた人が集まり、さまざまな情報交換が出来たり、不要品の売買や、毎晩誰かが一芸を披露してくれたりして、異国の夜を楽しく過ごせました。でも他国の人には迷惑だったのかなと思いますが??。 各国の情報が欲しいので、宿舎で一番の人気者はアメリカ経由で来た人、二番人気はソ連経由の人です(これが一番多かった)、中近東を車で来た我々は論外でした。 二代目番長の森本氏からメールが来ました。あれから35年後のことです。 彼のサイトです。http://homepage3.nifty.com/ryokodo/ セゴビアのローマの水道 10月ごろアフリカの中央部に入ると雨季なのでしばらく時間を稼ぐ為マドリッドに滞在していましたが、同宿のフランス人の情報で、フランスのボルドーでぶどう狩りの季節労働者を募集していることがわかり、何人かの連中と一路ボルドーへ行くことになりました。
ジブラルタルのロック スペインにくっついた、この小さな部分は英国領です。このジブラルタル海峡を挟み、長い歴史の中で利権を取り合う列強の姿が浮き上がります。 フェリーを降りればそこはアフリカです。