
 アフガニスタンの普通の人々が自宅に招いてくれました。誰がisaoかわかりません。
荒地の続く街道でした。カブールで北と南に道が別れており、距離はあるけれども、南道路は舗装されているのでそちらを選択しました。当時ソ連が肩入れして出来上がったアジアハイウェイが続き、大変快適なドライブが楽しめました。一見、この国の人々の顔は怖そうです。パキスタンとの国境カイバル峠では銃を肩に担いでいる人がいっぱいいました。でも、人々は優しく、道中食事をしていると、どこからとなく、住民が集まってきて自宅まで案内してくれ、一夜の宿を提供してくれる人々もいました。おいしい西瓜等ご馳走になり、夜遅くまで一族が集まり談笑します。お礼に何かを欲しがるかと思うと全然でした。土間に敷いた手編みの素晴らしい厚手の絨毯にみんなでごろ寝をするのです。泥で出来た家ですが、村全体が高い壁で囲われていて安全です。トイレもきちんとしたものでした。
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これがカイバル峠です。
アレキサンダー大王がジンギスハーンが
三蔵法師がこの峠から東西に向かいました。 |
ここは毛皮本場の国ですから、チョッキが欲しのです。カブールの毛皮屋で物々交換の交渉をしました。正調アイビーボーイisaoの大切な「トラッドのコート」とラムのチョッキを物物交換、暖かいチョッキをゲット、なめしが悪く匂いがありましたが、その後日本まで持ち帰りました。でも、その時のisaoの悲しそうな顔は忘れられません。
広い土地で人々も親切、アルカイダもない時代です。さぞかしソ連軍が進行して来たときには驚いたことでしょう。ソ連もインド洋の海岸と地球の自転速度の速い(宇宙ロケットを飛ばすのに有利です)赤道近辺の地域を欲しいのは理解できますが、やり口が汚いですね。
コース:カイバル峠・カブール・カンダブル・ヘラート・イラン国境

 ひたすら続く道を走る。
戦争もなくのどかな雰囲気の国でした。でも入国の時初めて「物をねだられた」国でした。コーランに「あなたのものは私のもの、私のものも私のもの」という項目があるそうですが、本当でしょうか・・・。
官吏官がもの欲しそうで、何かやらないと入国出来ないのかと、日本製のハンカチを用意し、もう一度事務所の看板を見ると「検疫所」だったので、何もやらずにとおり過ぎました。荷物を山と積んだトラックの通過はそうとう時間がかかっていましたが、我々の入国審査は比較的簡単でした。
テヘランまでの街道は北部と南部があり、カスピ海を見たくて、北側の道路を選びましたが、荒れ放題で閉口しました。洗濯板並の道路が何百キロも続くのです。車全体のボルトとビスが緩みそうです。
ある夜中に、突然車を揺する奴がいました。慌てて二人で起き起きて「誰だ!!」と大きな声を出すと同時にサーチライトを照らして外へ飛び出しましたが、あたりには誰も人がいません。おかしな事があるものだ思いながら寝てしまいました。が、翌日ドライブ途中崖が崩壊していて道路が通行止めとなり、何十台かの車と待つこと数時間、誰も文句を言いませんでした。のんびり食事や昼寝をしていると、川下からブルトーザーがやって来て、一気に仮設道路が出来上がり驚きました。そうです、昨日の出来事は地震だったのです。山の斜面でキャンピングしなくて良かったと、胸をなでおろしました。
街道際にはスイカ畑が永遠と続いていましたので、こっそり味見をしていた所、見つかってしまいました。番人が追いかけてきましたので、フルスピードで逃げ切りました。
また、ロバに乗った子供達が道端に多くいましたので乗せてもらいましたが、快適なものです。場所さえあって自宅に一頭飼っていれば便利な動物だと思います。環境破壊もないし・・・。
 洗車してると人だかり。
カスピ海周辺は上流社会のバカンスの地で、ハイキングやランチを楽しんでいる金持ちであふれていました。 彼らも親切で「チャパティ(パン)」をくれたり、「チャイ(お茶)」をご馳走してくれました。色々なチャパティをご馳走になりましたが、裕福な家のものは卵や牛乳が入っていて美味しさが違います。また、彼らはどういう訳か、ほとんどの人がスウェーデン製の「ボルボ」に乗っていました。貧富の差が大きく、その後革命が起こったのも理解できることです。
テヘランは近代的なすばらしい町でした。ここで初めてMIから日本大使館気付で来たletterを読みisaoと二人でウルルンしました。また、ここは元祖「垢こすり」で有名です。さっそく本物の「イランあかこすり風呂」に直行します。isaoは腰巻を巻かずに洗い場に飛び込んだのでひんしゅくをかっていました。久しぶりの入浴、洗い人が身体を洗ってくれます。垢の出ること出ること・・・すごい。
コース:マシュハド・サーリー・テヘラン・タブリーズ・トルコ国境

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下の写真は2017年9月に反対側のアルメニア
から写したアララト山です。
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トルコ・アルルト山(5165m)
山あり谷ありの街道、昔トルコ海軍の水兵達を四国沖で助けたことや日露戦争に勝ったからかどうか知らないけれど、日本びいきの人が多くいました。色々な野菜やフルーツを見ることが出来ます。黄色の大きな瓜が美味でした。町中に駐車すると子供達が飛んで来て、洗車をしたがりますが、こちらも貧乏ですから自分で洗います。首都のアンカラまで来るとあちこちで炭焼きのシシカバブやケバブを売っています。肉好きのisaoはそれらにかぶりついていました。
いよいよ中近東も終わりイスタンブールのボスポラス海峡を渡ればそこはヨーロッパです。だんだんと人々の顔がヨーロッパ人に近くなって来ました。ここはオリエンタル特急の東端駅です。海峡のガラタ橋の下で多くの釣り人を発見、大して釣れないのに一日中いる感じです。アジアとヨーロッパの文化が交じり合った情緒ある都市でした。
いよいよブルーモスクの次はヨーロッパです。
コース:アール・エルスルム・アンカラ・イスタンブール・ケシャン・ギリシャ国境

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