南米北部4カ国の旅
NOV/2010

歴史的建造物のパナマ運河を見たいと思っていましたが、ついでにベネズェラに行ってエンゼルフォールも見てみたいし、コロンビアのコーヒーも現地で飲んでみたいし、隣の国エクアドルでは赤道をまたいだり本場のバナナも食べてみたい。そして、パナマならパナマハットだろうなどと話している間に、やっと今回はそれにマッチしたツアーがあったので参加することにしました。4カ国訪問すれば、これで100カ国を歩いた事になり、記念すべき旅になるでしょう。

今回活躍したau
SO01、Free WI-HI
結構ありました。 

いつもの空港parkingに車だけを預けて(トランクは旅行会社持ちで空港へ発送済み)空港へ行きます。
横浜APEC開催の影響で道路が混む可能性があるのでアクアライン利用で少しは早めに出発、途中物々しい警備をしていますが問題なく成田に到着しました。飛行機は満杯で、これから12時間のフライト、アトランタで4時間の待ち時間でさらに5時間のフライトです。アーアー・・・しかたないです。
 アトランタでトランジットなれど,ここでAmericaに一旦入国手続きを行い出国手続き、10本の手指の指紋と顔写真を撮られて入国OK、手荷物検査はベルトをはずして、靴まで脱いでやります。例の全身透視もありました。   DL393 17:25発(4時間5分)パナマの首都パナマ・シティへ向かいます。一時間遅れで出発、お客もパナマ人らしき人が多く乗っています。 panamaには21:30到着しました。さあ旅の始まりです。


          
パ ナ マ

到着後、パナマシティのホテルへ。Crowne  Plaza Hotel 外見はそれほどでもありませんが、館内はリフォームされていて、清潔で綺麗です。部屋も十分広くとってありました。ガイドはフランス人フィルップス氏、パナマ在7年コロンビアからやって来ました。

Panama Canal
1881年フランスのレセップス(スエズ運河建造者)が運河建造に着手しました。今度はパナパ運河債権を発行して市民から資金を調達しました。ところが、大平洋と大西洋の海のレベルが27mも違いました。技術的に困難を極めました。また、マラリヤや黄熱病の風土病に悩まされ工事は遅れることになります。さらにはレセップスが死んだ噂などが流れて資金が行き詰まり20年の歳月をかけましたがついに断念しました。
それを見たアメリカは喜んでバトンタッチをうけ1903年運河作りに挑戦します。アメリカチームは最初に疫病気対策を施します。そして、海水面高度差を解決すべく、閘門式を登用して水面段差を解消して1914年完成させたのです。
尚、その後1999年12月31日にこの運河は独立したパナマに返還されました。
ミラフローレス閘門
ナマ地峡全長80kmを横断し太平洋とカリブ海(大西洋)を結ぶ運河。
船舶の幅32.3m、海面下12m、全長294.1m、一日40隻まで、
午前中は太平洋からカリブへ、午後は逆に運航します。
日本の「戦艦大和」はこの幅で造られました。大西洋まで行く気だったのでしょう。
第二次大戦中には日本軍による運河爆破計画もあったそうです。やらかさなくてよかったですネ
   
 @太平洋側から船が入ってくる。 A 岸の両側で電気機関車がコントロールする。
   
B大西洋側とはこれだけ段差がある。 C頑張っている日本製の電気機関車。
D向こう側の船は運河を出ていく。 Eこちらの閘門が閉ざされる。
F大西洋側の高さに水位を上げる。 G閘門を開けて船は出ていく。

パナマ運河建設に1億5290u以上の土石が掘屈されました。その土石を貨物列車に積み込めば、列車の長さは地球を4周すると言われています。この土砂の一部をパナマ湾側に埋め立て島を形成して、運河に海からの砂防の役割をさせています。このアマドール島にあるレストラン「ALBERRTOS」でランチ、マッシュルームの前菜・ペスカトーレ・ケーキで、材料も大変フレッシュで美味しく頂きました。

マッシュルームの前菜 ペスカトーレ 紅茶ケーキ 店構え


Panama Viejo

パナマの町が成立したのは、スペイン探検家バスコ・ヌーニエス・デ・バルボアが1513年に大西洋側のダリエンからマナパ地峡(幅64km)を横断して太平洋(サン・ミゲル湾)に到達したこと発端だといわれています。
スペインが1519年に築いた植民地の遺構パナマ・ビエホはスペイン植民地時代を彷彿とさせる旧市
現パナマシティより少し東側に位置した場所です。
16世紀黄金目当てにこの大陸の太平洋側にたどり着いたスペイン人達が南米との交易の拠点としては大変良い立地と考え、最初に街を形成しました。

その150年後の1671年にイギリスの海賊ヘンリー・モーガンに襲撃されことごとく破壊され金銀財宝は全て奪われ、破壊された街はそのまま放置されていました。
そして、破壊された建物の礎石等を新町建設の材料として使われたので、古い遺構は散々な目にあっています。

20世紀になりその遺構を調査して修復作業も始まり世界遺産に登録されました。
2003年からJICAの海外青年海外協力隊もこの事業に参加しています。
パナマ・ビエホは、カテドラル La Catedral (大聖堂)の鐘楼跡 Torre トッレが残っています。

カテドラル跡 La Catedral (大聖堂) (大聖堂)の鐘楼跡 Torre トッレ



Casco Viejoo

1671年にパナマビエホが破壊されてから2年後1673年に南西に7.5KM 離れたこの地に再建されたのがこの歴史地区の旧市街カスコビエホ(世界遺産

教会入り口 サンホセ教会の黄金の祭壇 修道院跡

実に百年以上かかって造り上げたカスコ・ビエホにある教会、1688年〜1794年までに建設されたもの、海賊ヘンリーにこの教会も襲撃されましたが、黄金の祭壇は漆喰に塗り固められていたので、黄金とは気がつかずに残されたそうです。そのためパナマの信者等はこの教会を特別な気持ちで崇拝しているそうです。

独立の英雄、シモン・ボリバルの像が
立つのはボリバル広場
カテドラルは、1688−1794年に建てられた、
旧市街の中では最古で最大の建物です

フランス広場

フランス広場  フランス広場から新市街  レセップス

レセップスの像を中心に、パナマに尽くした人たちの像が並んでいます。フランス大使館があったので、フランス広場と呼ばれたらしいですが、普通の公園です。コモ族が店を広げています。近くにパナマ運河博物館があり中を見学します。フランスの工事状況とか失敗談やアメリカに権利を渡した記録等興味のある写真が歴史を物語っています。

ホテル近くのレストラン「LAS TINAJAS」でパナマ民族舞踏を見ながら会食

なかなかの舞台でした。基本的にはラテンですがスピードがあり、珍しく最後まで
お付き合いしました。ほとんどの料理にパクチを使っいます。
食事は海のものが新鮮&豊富で大変美味しく頂きました


パナマ帽子はルーズベルト大統領がパナマ運河を見学の時に被ったのが報道されて世界に知れ渡ります。それらの帽子はほとんどがエクアドルで作られパナマで販売されているので「パナマ帽子」といわれています。
翌日
、朝食後、空路、ベネズエラの首都カラカスへ向かいます。CM223 11:46 発 14:32着 (時差+30分)着後、ホテルへ。HOTEL OLE CARIBE 〈カラカス泊〉
 
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