OCT/2006

    ポーランドの秋街道を行く

アイルランド往復のチケットで、もう一都市往復OKなので、旅行の途中でアムステルダム経由でポーランドの秋を楽しむためワルシャワへ行くことしました。
ワルシャワ空港(フレデリック・ショパン空港)には深夜到着、以前は悪評のクモスケタクシーが横行していたそうですが、EU加盟と同時に空港周辺の地域は安全対策がとられ、不安感のない場所になっていました。 到着ロビー出口からタクシー(MPT・SawaTaxi・MercTaxi)でホテルへ向かいました。ドライバーの人相は悪い(ゴメン)けれどもメーターどおりの請求でした。

【Warsaw Marriott Hotel】
 Al. Jerozolimskie 65/79 Warsaw 

旅行計画中に、ポーランドでのレンタカーを探していたところ、マリオットホテル内にAVISの事務所があることが分り、ここに泊まれば簡単にチャックアウトできると思い予約を入れておきました。
フロントで聞くと確かにAVISのカウンターがありました。翌朝時間通りに係りが来るか不安でしたが、十分吟味された豪華な朝食を食べカウンターに行ってみると係りは来ていました。さっそく手続きをして、トランクをフロントに預けて出発。車はFord Focus 1.6 AC付き、長距離を走るので大きめの車にしました。

道端の果物売り
ホテルの駐車場を出てから8号線(E67)を目指しましたが、一本道をずれてしまい、どこかでクロスすると思いましたが、ついにクロスせずガソリンスタンドで尋ねたところ、言葉が全然通じません。でも身振り手振りで一生懸命教えてくれます。なんとなく理解できたので、あてずっぽうに再びスタート、やっと本道に入れました。
街道は国道のメーンであり、舗装されていますが、ところどころ穴が開いています。それでも並木道はきれいでアカシヤや白樺、ポプラの紅葉が続くのです。また、郊外の林のある道にさしかかると、道端に産地直売の店が並んでいるのです。さっそく物色開始、大きな名も知れない秋の産物キノコや果物が並びます。今回も野菜洗い用のザルを持参しましたので、美味しそうなプラムを買ってみました。
カメラを向けると果物売りのおじさんはこのポーズで決まりでした。一路「我が名」発祥の地?KATOWICEを目指します。景色は中欧の田舎風景、寒い地域なのでポプラの並木が似合います。高速を突っ走る予定だったので、レンタカーはランクアップしただけに、快調に進みました。高速道路は警察官が一杯で、何台もスピード違反で停車させられていました。今日は550km走行します。



今回この国に来た理由の一つは、アイシュビッツ収容所を訪問すること。自分の中の世界史で外すことの出来ない重みを持っているところなのです。人間のおぞましい姿を垣間見ることが出来る場所でしょう。大きなポーランドの地図を買って行きましたが、ここへの案内図はネットにも見当たらないし、近くに着いてから、標識だけが頼りです。勿論直近までくれば結構な見学者もいますので見つけやすいのですが・・・。

クラクフの西約40kmのオシフィエンチムに1940年にナチス・ドイツが作った強制収容所。ここから3km離れたビルケナウの収容所とともに、人類の負の遺産として保存されています。

アウシュビッツ強制収容所入り口
戦争の悲惨さを今に伝えるユダヤ人強制収容所跡、(オシフィエンチム)アウシュビッツとビルケナウ収容所跡を見学します。
市内に入り路線バスの後を着いて行ったら、施設の裏側駐車場にたどりつきました。ここは無料なので、少し歩きますが駐車して歩き出します。
けっこう見学者が多くてびっくりしました。日本人の観光客はだれもいないようでした。入り口で案内図を見て中に入ります。皆押し黙って、悲惨な様子が写されているパネルを拝見するのです。
ここだけは大声を出したり、はしゃいでいる人はいない沈黙すべきところなのです。
ビルケナウ収容所「死の門」
有名な風景のビルケナウ収容所の引込み線路入り口です。列車で運ばれてきたユダヤ人たちはここから収容所に運ばれるのです。イスラエルから来た学生の団体は国旗を何本もかざして、館内を見て回っていました。牢屋、収容所ベッド、銃殺所、絞首台等おぞましいまでの嫌悪感を感じますが、目を離しては行けない場所なのでしょう。自分を含めた人間の悍ましい行為、それでも地球から戦争はなくならないのだから・・・。



バルバカン
オシフィエンチムから古都クラクフを目指します。
細かな地図を持っていなので当てずっぽうに市街地に入り込みましたが、やっぱりロストです。

織物会館売店nhkオバサン

車から荷物を降ろしているご婦人がいましたので聞いてみたら、車内から市内地図を持ち出してきて、今の場所を示してくれました。この方法が一番分りやすいのです。その場所は偶然にもホテルからほど近い場所でしたので大喜びです。目的地はすぐそこです。でも旧市街なので道が狭いのです。車の渋滞を縫いながら、ホテルの看板を探しながら走るのですから。
MIが「看板あったわヨ」の声がかかったので、上を見ながら車を走らせたらなんと、右側に並んでいた車の左側ミラーをこすってしまいました。
ガリガリガリ・・・。ああ何というショパンの響きでしょうか・・・。
自分は道路の左に寄り、被害者を待っていましたが、かの車はミラーを元に戻して、そのまま行ってしまいました。そのくらいのキズはなんでもないのでしょうか、お国柄ですか・・・。こちらのダメージは幅3cm長さ1mのこすり傷です。これは裏技「歯磨き粉と垢こすり」でリペアーします。


織物会館と中央広場(全長100m)
【Guest Rooms Wielopole】 Krakow (Malopolskie)Wielopoleの宿にチェックインしてから散策です。
バルバカンから1300年ころ建てられたフロアンカス門をくぐり旧市街へ入ります。
そして中央広場を歩いていると、突然ランペットの響きが聞こえてきました。ゴシック様式の聖マリア聖堂を見上げると、確かにラッパを吹いている人が見えました。その昔モンゴル軍の襲来を知らせるためにラッパを吹いた兵隊が殺され、それを悼んで一時間毎に演奏するそうで、その時間に偶然居合わせたのはラッキーでした。
ここは14世紀から17世紀までポーランド王国の首都として発展した街。旧市街は城壁跡のブランディと呼ばれる緑地帯に囲まれています。
中央広場から王城であったヴァベル城への道は、古都の風情が十分残る歴史的な町並みが続くすばらしいものでした。

ヴァヴェル城
ポーランドの多くの市街は第二次世界大戦の激戦地となり壊滅的な被害に遭っていますが、ここはドイツ軍の司令部が置かれていたため難を逃れて、歴史的な町並みはそのまま今も残っているのです。数日間をかけても見切れないほどの魅力を秘めたケラクフはもう一度訪ねたい街の一つになるのです。
聖パウロ教会

お目当ての一つであるチャルトリスキ美術館へ行き、ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」を観ようとしましたが今日は日曜日で休館でした。残念。

夕食は、ホテル【Guest Rooms Wielopole】のデスクマネジャーお進めの「SZABLA I SZKLANKA」の店で、郷土料理をいただきました。リーズナブルで、美味しいお店でした。
ポテトパンケーキ ソース三種 キノコスープ ピエロギ

レンタカー&WISLA川沿いの国道79号線
朝食後、ワルシャワへ戻ります。
「JATA世界旅行博2006」のポーランド・ブースで教えて頂いた、クラクフからワルシャワへのお進めのコース「79号線」を走ります。
ポプラや銀杏が黄色く色ずき、黄金の街道を作り出すのです。Wisla川の脇をとおる街道で、途中小さな村落が点々とあり、その可愛さはドライブの疲れを和らいでくれるのです。右の教会も途中の村にあった名前も知らない美しい教会です。この日は470km走りました。



ワルシャワのホテルでRENTACARを返却、市内観光へ。タクシーを呼んで旧市街へ行きます。 すばらしい町並みが続き、十分に驚きに値するのです。本当に1945年にドイツ軍により破壊され、復元されたとは思えないものでした。この民族の力強さや不屈の精神を感じさせるにたりる街なのです。

旧王宮(博物館)
ワルシャワの歴史そのままの建物で、過去には国会・大統領執務室・士官学校・国立劇場などが置かれた歴史的舞台なのです。

この国ではショパン・コペルニクス・キューリー夫人が誇りなのです。飛行場の名前がショパンなのですから。私にとってはやっぱり「議長レフ・ワレサ」なのですが、現地では過去の人になっているのです。
1980年「連帯」運動が始まり社会主義政権は急速に衰え始めます。1989年ポーランド統一労働党「連帯」が政権を奪取し、同時期に東西ドイツの壁が崩壊したのです。

ワルシャワ蜂起記念碑
旧市街から北に向かって歩いて行くとバルバカンが見えてきます。ここら辺りには変な人たちが屯していますが、その先左方向にこの「蜂起の記念碑」が建っていました。
第二次世界大戦末期、1994年、東側から攻め込んだソ連軍がこの地に迫りドイツ軍が弱体した機会を得て、ポーランド市民の地下組織は一斉に蜂起したのでした。しかし、ソ連軍はアンチ・ソ連の市民に対してはすぐには協力しなかったのです。ヴィスワ川岸で待機しました。そのためドイツ軍は再び盛り返し、市民20万人犠牲となり、さらには街全体を火炎放射器で焼き尽くしてしまったのです。2ヶ月の壮烈な戦いは終わり10月2日には再び市民は降伏したのでした。

旧市街市場広場&人魚像
なにせ国土は全ヨーロッパ大陸の中心にあるため、欧州の要所であり歴史に翻弄される場所にある国なのです。異民族の侵略と反抗の繰り返しなのでした。島国の日本とは全然違うのです。
この市場広場も灰塵に帰しましたが、見事に復興したのです。

市内見学後レストラン「シュヴィエントシェク」でローカル料理に舌鼓。
新旧市街とも結構安全が保たれています。ポリスが巡回しているし、安心して観光が出来るのです。物価も安い感じでした。最後にスーパーでお土産をゲット。そして、MIは地元民が食する材料を漁り、日本に持ち帰るのです。

レストラン「シュヴィエントシェク」のレシピ
店舗入り口 ジュレークのスープ
発酵ライ麦の酸味のスープ
ズラジ・ザヴィヤネ
薄切り牛肉で野菜を包んだもの
豚のカツレツ
豚に味付けして揚げたもの


左から生方夫婦&ミーハー夫婦

ALINA夫人お勧めのチョコ
ALINA夫人に頂いたソーセージ

空港で思わぬ出会いがあり、生方夫妻と話し込んでしまいました。氏はこれから日本に帰国してご家族にお会いになるとか、1970年代にポーランドに住み、ALINAさんと結婚。奥様はポーランドの印象をを盛んに質問します。
古都が美しく、思ったより治安が大変良く、旅行者も安全に楽しい旅が出来ますと答えます。
料理も美味しいとの話をしてMIとも意気投合した様子。奥様はMIを空港の売店に連れて行き、これが美味しいと紹介してくれたチョコレートが右のもの「E.Wedel」です。帰国してから食べてみましたが美味しいものでした。それに、Kabanosyのソーセージの話をしたところ、ご主人のザックから取り出したのがこちらのもの、たぶん日本へのお土産だと思うのですが、我々にプレゼントしてくれたのでした。美人でやさしい奥様でした。日本に着たら再開したい旨お話しておわかれ。
この旅の最後に楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

Dziekuje Rzeczpospolita Polska !