バルト3国ドライブ旅行
 

  
リトアニア(77)・ラトビア(78)・エストニア(79)のドライブ旅行  2003年7月


天山北路を西安からカザフスタンにかけて西域を旅しようと考えていましたが、例のSARSの流行で中国への渡航が難しくなり断念、それなら影響のないバルト3国へ行こうと、ツアーを申し込もうとしましたが、日程が合わないので、個人で計画して出かけることになりました。
バルト3国まで行くなら、想い出の地ハンブルクへ寄ろう、ついでにエリカ街道もいい、それならミーハー街道

 オールセイント教会ヴィリニュス
否ロマンチック街道もよさそうだ。フッセンまで行くのならスイスも寄ろうと、H.I.Sでああでもないこうでもないと、どうやら飛行機切符が用意できたところで、コースを決めて、ホテル探しです。しかし、リトアニアの知識はあまりないのでWebでみつけた旅行社でバルトのホテルの予約を一任、リトアニア・ラトビア・エストニアのコース順でお願いしました。リトアニアの首都ヴィルニュスでレンタカーを借り、エストニアのタリンまで行き、船でヘルシンキへ渡る。ヘルシンキでは当然市場で食事して、アラビアの陶器をゲット、今回はミュージアムのある工場直売店で赤札・黄札のアウトレット品を見つけることにしました。その後ハンブルクへ飛び、エリカ街道・ハーツ地方・ロマンチック街道をドライブして、スイスアルプスを見て廻ろうと計画しました。


リトアニア

リトアニア共和国の夏はほかの2国にも共通していますが、白夜があり22:00くらいまで明るく、旅行者にとっては大変便利です。でも、調子にのって何時までもブラブラしていると翌日がきつくて「ナンデダロー」なんてことになります。

ヴィリニュス

ヴィリニュス空港に到着
KLMはアムステルダムでリトアニアALに乗り換え、ヴィリニュスには夜遅く着きました。パスポートコントロールは、いたって簡単入国スタンンプだけでした。ホテルには事前に遅くなる旨伝えてありましたので安心です。空港ロビーは22時を過ぎているのに両替屋は開いていました。$50両替し、タクシー(20LIT)を拾って一路ホテルへ行きチェックイン。それから部屋を飛び出てさっそくその辺を散歩、でも夜の12時を過ぎてるし、明日にしようとホテルでぐっすり。
  宿泊した夜のConti Hotel


ヴィリニュスの朝市場
ホテルの朝食ブッフェは我々だけでした。身支度をして出発です。人様の家の様子を知りたかったら台所を覗くのが常套手段、まずは市場に繰り出しました。屋内は肉・ハム類や魚類、外は果物や知らない野菜でいっぱいです。グランベリィー・ラズベリィー等が山積みです。採れたてを運んで来たのでしょうか、盛んに売買していました。みんなフレッシュです。ほしいけど無駄になるのでやめました。
市場外には個人の売り手がごらんのように整列し、手つくりのパン・お菓子・果物・チーズ等を足元に並べて買い手をずっと待っています。ストロベリィ・ブルーベリー・チェリー・プラム・リンゴと種類も豊富で値段も安いです。特にブルーベリーは日本の1/10です。殆どがジャムやお菓子に使うそうです。


夜明けの門 
旧市街の城壁入り口で唯一残っている城門で、当国の紋章を見ることが出来ます。右側には中世の城壁が続いています。1503年からタタール人の侵入を防ぐため造られたものです。門をくぐると、旧市街側に脇階段があります。登っていくと小さな礼拝堂があり、敬虔な地元の人達が黙々とお祈りを捧げています。思わずこちらも真剣な面持ちになってしまいました。ここの聖母のイコンは奇跡を起こす力があるそうです。
その先を行くとすぐ右側に
聖テレサ教会があります。
この町の教会の多さには驚きを感じます。どの教会でも、もくもくと祈りを捧げている人達を見ることが出来ます。その雰囲気が町全体に広がっているのです。


聖アンナ教会
さらに進むと右側にピンクのかわいらしい門が見えてきます。奥にはおおきな教会がそびえ建ち多くの人たちが行き来していました。精霊教会のゲートです。リトアニアにおけるロシア正教の大本山で修道院としては唯一とか、メーンストリートの夜明けの門通りの左右には歴史に残る建物が並びます。朝早かったので観光客もまばらでゆっくりと見学できます。聖ヨハネ教会を左に見て、東の古びた通りを行くと、精霊教会の入り口とベルナルディン教会が見えてきます。旧市街でもっとも高い鐘楼(63m)を持ち
,16世紀後半に建てられたゴシック様式の教会です。建設には33種類もの違った形のレンガが使われており、ヨーロッパでは他に類を見ない、16世紀当時の技術の粋を集めたものだったということです。現在のバロック様式の教会は1737年の火災後改築されたそうです。
1812年、ロシアへ攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際、この教会を見て、「わが手に収めてフランスに持ち帰りたい」と語ったという有名な話があります。


大聖堂と鐘楼
夜明けの門通りからディジョイ通りビリエス通りをまっすぐ北に向かうと大きなカテドゥロス広場が広がっています。サンサンと輝く太陽のしたに大きくそびえるのがヴィリュニスのシンボル大聖堂(アルキカテドォラ)主教坐教会で)です。最初13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためにキリスト教を受け入れたミンダウガス王によって建てられました。その後また自然崇拝の聖地に戻されましたが、1387年ヨガイ公によって再びキリスト教化され教会が建て直されました。現在のクラッシック様式の建築は18世紀のものです。またソ連時代に撤去された三聖人の像は独立後の1996年冬に正面の屋根に再び添えられたのでした。脇にある
鐘楼(53m)の基礎は13世紀の城壁がそのまま使われていて、城壁の跡地はレンガで示してあります。その足元には・・・。

Stebuklas「奇跡」の敷石
1989年8月23日午後7時モロトフ・リッペントロップの秘密協定記念日に、ここの地

奇跡と書かれた敷石
を基点にエストニアのタリンのまで600kmを200万人(民族の約半分)が手を結び「人間の鎖」を作り、ソ連からの離脱と民族の連帯と独立への強い意志を示しました。この石の上に立つと民衆の力強い息吹を感じ、2004年のEUへの参加を目前にした3国の勢いを感じます。歴史の中で列強に翻弄されながら、欧州の中心地にあるこの地域は常に争奪の場となりながらも、独自の文化を継承してきたのです。


ウジュビス共和国

ウジュピス共和国の入り口
このウジュピオ橋を渡り町に入ると小広場にラッパを吹き鳴らす天使像が建っていて、2002年に市長が独立宣言をし、今までの遅れていた地域から、芸術家や学生が多く住む町に変化させていったそうです。毎年4月1日は通行にパスポートが必要だとか・・・。街中は観光客もまばらであり、なかなかいい味を出しているところです。
入り口のプレート


Uzupio Kavine(カフェ)

赤カブスープ

魚燻製料理
橋のたもとにしゃれたストランがありました。ヴィリニャ川の半分にテラスを出し、ライトミールを出していました。川の流れる音を聞きながら木陰で赤カブを使った冷たいスープ「シャルティバルシチィエイ」と「クルシュ砂州の魚料理」とcoffeeをグルメしました。味も良く雰囲気のあるお奨めの場所でした。

rentacar事情

RENTACAR OPEL1600ASTRA
今日の17:00にレンタカーをとりに行くことになっていますが事務所の近くまで来ましたので覗いて見ることにしました。ネリス川の橋をわたり10分くらい歩くとHARZの事務所がありましたが、なんとそれは閉まっていました。午後3時を過ぎているし、この国には南欧州のようなシエスタ習慣はないはずだし、ドアーを叩いても何の返事もありません。ドアーに書いてある、事務所を開いている時間帯を見ると午後は13:00から17:00となっています。日本で調べた時間は18:00になっていて多少のずれはありましたが・・・。良く見るとモ
   町での結婚式風景








バイルの連絡先がありました。道路を挟んでホテルホリディインがあったので、電話を借りようとしたら、公衆電話を使ってくれとのことでした。近くにキオスクがあったので、テレホンカードを買ってきて電話をしましたがつながりません。参ったなと、そのホテルのフロントに聞くと070ではなく新しいモバイル電話番号はすべて060で始まるとのこと、さっそく試したところ、繋がりました。
W「ハロー事務所はどうして閉まってる?」
H「大丈夫です。17:00には事務所に行きます」
H「車予約の件は承知しています」
W「あんまり脅かすな!!・・・」
H「ホテルはどこですか?よろしければ車届けます」
W「OKコンチホテルに17:00に届けてください」
で連絡はすみましたが、チェックできなければ他社で予約をするところでした。
予定どおり17:00にはホテルで車をゲットできました。事情を聞きましたら、普段は空港事務所に常駐していて、必要に応じて市内の事務所に来るそうです。
車はオペルASTRA1600 4ドアー・マニアルで新車です。フロントバンバーに少し傷がありチェックマークを入れて借り上げ、ボンネットと給油口の明け方を聞きOKです。いよいよ明日からドライブの始まりです。
車を受け取ってから、郷土料理を食べに再度旧市街へ入りこみました。

   リトアニア料理

リトアニア料理
レストラン「ガビ」

ブルヴィニェイ・ブリーナイ
ジャガイモのパンケーキ
「うまい」

トェペリィナイ
飛行船そのまんま
「楽しい」

コウドゥーナイ
リトアニア水餃子
「懐かしい」

トウラカイ

トウラカイ城

   城の正門

荷物をトランクに入れてエンジンスタート。朝の出発はいつも気持ちのいいものです。ホテルで町からの出方を聞いておきましたので何とかスムースに郊外へ出ることが出来ました。どの町でも入る時はセントラル(町の中心)を目指してくれば何とかなるものですが、出るときは逆方向へ行ったりすると大変なことになります、難しいものです。郊外へ出ると、道路はすいているし、道端には花が咲き、牛などがのんびりと草などをはぐくんでいる様子を見ると、楽しくなります。
104号線からトウラカイ城を湖の向こう側に発見、旅行書にはバスターミナルから歩いて15分と書いてありましたので、ターミナル近くに駐車して歩き始めましが、城の方向にどんどん車が入っていくので、ターミナルに戻り、車で再度向かったところ、城の入り口近くに有料駐車場(番人がいます)がありました。
(注)得てして旅行書は、バス電車のたぐいでの行き方が多いので注意です。
湖岸からの城は話題どおりすばらしい眺めでした。まだ朝早かったので城門はしまっていました。それでも、城壁を一周してみました。湖のほとりにはいくつかのヨットが停泊しており、観光客を案内するそうです。誘われましたがお断りしました。彼等はそのヨットで生活していました。橋のたもとは「琥珀」が安くて有名な売店がずらりと並んでいましたが、MIはお気に召さなかったようです。ほとんどが偽物とか・・・?。
琥珀の売店

カウナス

リトアニア第二の都市カナウスは両対戦の間ポーランドに占領されていて、首都でした。

カナウス城
カナウスも良くわからない町なのでセントラルを探して街中へ、いろいろ迷っているとカナウス城のまん前に出ました。「ここはどこなのか」分かれば後は簡単、旧市街でも車はスイスイ入れるし、主だったところにはたいてい駐車場の用意があるので気にしないでどんどん入りこんで見ました。この市庁舎はバロック様式で、白鳥に例えられるほど美しいもので、1542年に礎石が置かれ、18世紀に建て直されたものです。旧市庁舎はどんと構えて広場の真ん中、りっぱなものでした。旧市庁舎

 杉原千畝(ちうね)氏(1900〜1986年)は1939年7月から1940年8月まで駐リトアニア日本領事代理としてこの地で働いていました。現首都ビュリニュスは当時ポーランドに占領されていたため、首都はカウナスでした。
 独ソ不可侵条約秘密議定書に基づき、ドイツが1939年9月1日に、続いてソ連が9月17日にポーランドに侵攻し、占領地域から20万人ともいわれるユダヤ人が隣国リトアニアに逃げて来ました。
 1940年7月18日の朝。日本領事館前に200人ものユダヤ人が押し寄せました。すでにカリブ海のオランダ領キュラソー島のビザを取得した彼らは、ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めていたのです。
 杉原氏は本国外務省に判断を仰いだものの、結果は日独同盟の関係から「拒否せよ」でした。悩んだ結果、自分の判断でビザ発給を決行しました。その後、9月5日にカウナスを離れるまで、記録が残っているだけでも2000人分ものビザを発給しました。その結果、子どもを含む6000人の命が救われたのでした。

杉原記念館
おおまかな地図しか持っていないので感だけが頼りで、旧領事館を探します。バスターミナルの手前を入って、モスクの脇から行けそうですが、なかなか見つかりません、住所は近いのですが、ご近所らしき人に聞いてもチンプンカンプン、再度モスクまで戻ります。2ブロック東側で車を降りてみると、目的地方向に石階段がありました。地図上はこの上方であり、徒歩で石の階段を上っていくと、登り終わったところからの右側の電柱に
「在カナウス大日本帝国領事館」100m先の看板が見えてきました。
さっそくベルを鳴らして見ると、中から青年が出てきました。SIMONAS DOVIDAICIUS君という独身のユダヤ人でした。彼はここの館長で杉原記念館を管理しているそうです。杉原氏のオフィスや当時の様子の説明を興味深く聞きました。その後ビデオも見せていただき、改めて戦争や民族間の争いが無意味な事だと認識しました。杉原氏の人道的な行為を賞賛し、自分の将来とか家族とかを考える前に「良心的な人間」であろうとする彼の姿勢にはまったく感動しました。

見学後一路ラトビアに向かいます。
A8号線産地直売の親子

道中発見なんでしょうか?

気持ちよく街道を走っていると、道端に産地直売所?があるので、立ち止まってみますと、農家の親子(母・息子)が今採りたての
トマトとキュウリ」を売っていました。地元の人も停車して買っているので買ってみました。今回の旅で特別にMIは「ザル」を持参したのです。それは現地で買った野菜や果物を食べる時に洗浄するための物でした。早速買い込みリーガのホテルで食するのでした。トマトの実は厚く強い香りがするものでした。キュウリは機内でもらった醤油で日本味気分でまあまあでした。MI曰く「トマトは料理用、キュウリはピクルス用」です。街道の周りは
牛たちがのんびりしていて、いい気分で国道A8号線を運転していると、MIが突然「十字架の丘」を見たいと言い出しました。ショートカットすれば、それほ遠くはないらしい。いつものように突然予定を変更してRamygalaからショートカットSeduvaへまわるコースに変えました。わき道に入ってみると、それが相当なダート道、安全の為速度は落ちるし、乗り心地は悪い・・・。でも、ヨーロッパの田舎道をゆっくり走るのも悪くはないものです。緊張し、ボケ防止にもなりました。一般道では100qで走っていましたが、40qほどの稼ぎでしょうか。意外と時間をとられました。

十字架の丘
Siauliai市をバイパスして10kmも走ると右方向の小高い丘に、なんとなく十字架の固まりが見えてきます。Kalnasの標識を右折しますとまもなくはっきりと丘が見えてきました。草原に広い駐車場があり数台の車が来ていました。訳も判らずミーハー夫婦も「木の十字架」を売店で買い、旅の安全を神頼みするのでした。この丘の始まりは1831年ロシアへの反抗で処刑された人達への追悼の思いからとか、定かではないようですが・・。ソ連時代には丘は立ち入り禁止だったそうですが、KGB等がブルトーザーで十字架の山を壊しても、いつの間にか新たな十字架が立ったといわれています。なにもない小さな丘に無数の十字架の山を見るとき、名もなき庶民の怒りや執念や喜びを感じることが出来るのです。今は止める人もいないので、これがどんどん増幅していくのでしょう。尚、ドマンタイのバス停留所からは15分では行けそうもない感じでしたが・・・。

ノンビリと国道A12を北上していくと畑一面
まっ黄色な菜の花畑が見えてきます。そのスケールの大きさは半端ではありません。地平線の彼方まで畑はつづくのです。ドマンタイから40kmで国境が近くなりました。残りのLTMでガソリンを補給しました。30LTMは国境で両替します。道路国境の出国は他のEUと同じでノーチェックです。


ラトビア

[国境での出来事]
さてここで問題が起きました。ラトビアの入国ゲートに着いても誰もいません。夕刻ですから他の車もいないのです。普通昔のEUですと、パスポートを窓からかヒラヒラかざせばOKですのでそのつもりで国境を跨ぎました。そして、駐車場に車を置いてからパスポートを持って先の検問所に戻ってみると、係官が出てきて
係「君はノーチェックで入国した」
W「停車したが誰も人影が見えなかったのでライン通過後このようにパスポートを持ってきたのだ。」
係「上司に相談したら逮捕かリトアニアに戻れとの事だ」
国境からすぐの道路わきの電柱に大きな鳥が巣を作っていました。こうの鳥のようです。リーガのホテルの部屋にもこの鳥の写真が貼ってありました

W「それはないだろう、リトアニアにもどれば再度入国可能か?」
係「今日はだめだ、明日なら入国可能だ」
W「ホテルの予約もあるし何とかならないか上司に相談してきてくれ」
彼は一旦事務所に入り出てきた。
係「上司は怒っている、向こう5年間は犯罪者リストに載り入国できない」
W「それでは罰金支払いではどうか?ここに60LT(¥2400)とUS$50あるがもって行け」
係「ラトビアの金15LS(¥3000)欲しい」
W「今入国したのに持っているわけがないだろう」
係「では」と彼はどうやら60LT(\2400)をワイロとして受け取り、我々はラトビアに無事?入国したのでした。
教訓:国境ではチャント、ラインで停車しましよう。
PS:通算100以上の国境を通過していますが、ワイロ的要求に会ったのは、イラン入国とトーゴー入国と3回めです。


リーガ

聖ゲオルギ教会

地理的にもバルト3国の中心に位置し、経済的にも他の都市を一歩リードしている都市。1201年に歴史上登場し、13世紀にはハンザ同盟に加盟して、町は急速に発展してきました。16世紀から19世紀にかけてリーガはポーランド・スウェーデン・帝政ロシアの支配下に入り、町は荒廃したこともありましたがソ連から独立した後、復興し魅力のある町に変身しています。

旧市街の西側に流れるダウガヴァ川の向こう側にあるラディソンSASホテルにチェックインしてから、車で旧市街へ「11月11日通り」際の英国教会近くの路上に駐車して市内見学、リーガ城、リーガ大聖堂、旧市庁舎、聖ペテロ教会等を見て歩きました。

リーガ大聖堂
外から見ると、地面が沈み込んでいて、教会が出来た頃と路面の高さが大きく変わっているのがわかります。1211年にアルベルト僧が建築を始め、その後何度も改築が行われ、18世紀に現在のような姿になりました。そのため、どこがどうだか分かりませんが、ロマネスクからバロックに至るまでが混在しているそうです。
3人兄弟といわれているビルで、兄弟のように肩を寄せ合って建っている建物、時代を反映し15世紀に建てられたものや16世紀17世紀に建てられたものが続いています。(説明書には書いてありますが、私にはどれが兄でどれが弟か分りませんでした)

こんな路地が:聖ヨハネ教会
裏のヤーニスの庭に行く道

町全体は

Davanas Ziedi

7日間の指輪
古い町並みがきれいに整備され、旅行書にはヘッドスキンの連中が薄気味悪いと書いてありましたが、警察官の姿も見え隠れして安心して路地を歩けます。夜間でも多くの人達が寄り集まり、騒ぎは何時までも続いていました。特にリーヴ広場のビアガーデンではバンドも生演奏で歌あり・踊りありで是非訪れたい賑やかな広場でした。安全ですから、歴史に名を残している建物もゆっくりと写真が撮れるのです。
.七日間の指輪(Ligavas Gredzens)は神様のシンボルが7つ付いたもので、結婚一週間前からひとつずつ飾りを外していくものだそうです。リーヴ広場際のDavanasで売っていました。銀細工です。なぜかMIはこれをゲットしていました。

リーガ出発の日、朝起きて車のところに行ってびっくり、
パンクしています。昨日のダートでのドリフト(逆ハンドルで砂利道コーナーを高速で抜ける技)の付けが回って来ました。幸いにもスペアータイヤはしっかりしていましたので簡単に交換終了。でもスペアのパンクは不安ですから近くに工場があればスペアタイヤのパンクも直しておきたいものです。まずはタイヤ修理工場を捜してパンク修理の依頼をして、そこでMIを中央市場まで送り彼女は買い物と見学、私は再び工場へタイヤを取りに行きました。800円で修理してくれました。バランスも取ったようです。安いですネ・・。

中央市場のドーム
この4連の大きなドームはドイツのツッペリン(飛行船:リトアニアの料理に名が付いていました)の格納庫

蜂蜜売りのおばあちゃん

スィエリンシュのお味は?
をそのまま持ってきたそうです。中に入ってみると馬鹿でかく、当時ドイツが世界に誇った飛行船がいかに大きかったかを物語っています。肉・魚・乾物。野菜何でもそろっています。特にパンとチーズの種類の多さにはびっくりです。特産物の蜂蜜は、売り場の蜂蜜おばあちゃんがカッコいいのでここで買いました。道中あれだけ花が咲いているのですから、色々な種類の良い蜂蜜が採れるのでしょう。もう一つはカッテージチーズをフルーツ味でコーティングしたもので、スィエリンシュと言う物、これは要冷蔵で早く食べなければなりませんでした。
市場の周りはどこでもOK、但し係員がすぐに集金に飛んできます。

[国境で]
こんどはへまは出来ません。検問所の停車位置でぴったり停車、パスポート・国際免許書・レンターカーの保険証を持って下車。係官から簡単な質問(関税申告はないか?等)、運転席側の床に車両NOの刻印がありそれと書類が一致しているのかチェックしていました。入国スタンプを押して出発。こんどは本当の無事通過でした。

エストニア

意外と道のりがあり、なかなかタリンには届きません。車は本日の17:00に返却予定になっているので連絡をしなければいけません。途中大きなガソリンスタンドがあったので公衆電話を捜すと、ありません。店員に聞いてもモバイル用電話カードは売っているが公衆電話はないのです。ならばその店員の持っているモバイルを借り、料金を払うからと言ったら、丁寧にHARZの事務所に電話を入れてくれました。今晩は返却が無理なので明朝10:00で良いか聞いたら即OKでした。これで安心してのんびりとタリンに向かうことができます。


タリン

タリンへの入り口

    セーターの壁

写真は旧市街から見たヴィル門と宿泊したヴィルホテルです。ホテルから旧市街まで数分で行けますので大変便利でした。ここからが下町への入り口、入ってすぐ右側には13世紀に構築された城壁が続いていて、その壁の中にズラリとセーター類の売店が並んでいて、旅行者は楽しい買い物が出来きます。MIも何か、ないかと物色していましたがどうもお気に召すものがなさそうでした。
唯一かわいい手袋をゲットしていました。市中の御土産屋より安いのですが、協定があるらしく、ディスカウントはしないようでした。
この入り口のヴィル通りを進むと旧市庁舎が見えてきますが、そのあたりが店も多く、山の手から来る観光客との交差点になっていますので、さまざまな人々の様を観察することができ、しばらくじっとしていても飽きの来ない場所でした。

ラエコヤ広場の旧市庁舎
1991年に独立を回復したバルト三国は

This beautiful arched
walkway is right next
to the Dominican
Monastery
カタリーナの通路
、民主化・市場経済化に向けさまざまな改革を推進し、1994年には経済もプラスに転じるようになりました。1992年5月にEUと通商および商業・経済協力協定に、1994年にはEUと自由貿易協定、さらに1995年6月にはEUとの順加盟協定調印により三国が正式にEUへの参加と大きく前進しています。特にエストニアは力強い経済成長を遂げてきました。民間企業の急成長が大きく独立後のインフレも独自通貨の導入により解決しました。ロシアに大きく依存していた貿易をも大きく変更し、現在では同じ民族のフィンランドを最も多い貿易相手国としています。
Rentacarを朝一番で返却しに行きました。ホテルで聞いた道路を行くと2周目で発見、そばのガソリンスタンドでセルフ給油。日本でも最近は多くなってきましたが3国やドイツ・スイスもほとんどがセルフであり、カードでの清算が殆どでした。事務所前の有料駐車場に車を入れてHARZの事務所に駐車場チケットと鍵とドキュメントを持っていくと、「サンキュウバイバイ」だけ、引き取り終了、車のチェックもしない。そんなものかな、翌日返却分の請求もついに来ませんでした。サービスなのでしょう。


太っちょマルガリータ・1529年に建
てられた砲塔、壁の厚さ4・7mです

ノッポのヘルマン、ト
ームペア城シンボル

議会の前にあるアレクサンドル・ネフスキー
聖堂場所柄この国の様が浮かび上がる

市庁舎前のレストランPeppersackのテラスで食事、地鶏のグリルとミックスサラダを注文、これがすこぶる旨い、街行く人達やマフォーマンスを見ながら日陰になったテラスでグラスを傾けるとき、バルチックの国々での楽しかった出来事が走馬灯のように思い出され、次の旅への期待が高まるのでした。

Peppersack

オンテーブルの料理群とワイン

おしゃべりに夢中な苺売り

民族衣装のナッツのお菓子売り

バルトの即席ラーメン
一歩旧市街から新市街へ出ると、そこには新しい何処にでもある東ヨーロッパとロシアが持ち合わせているものがミックスした町並みが続いているのです。ブランド販売店、スーパーやデパート、コンビニにMAC等を目にすると、中世から現代にタイムスリップしたような思いにかられました。
さて、地元のスーパーでこんなものを見つけました。オーストリア扱いの即席ラーメンですが、名前がずばりMIでしたのでビックリ思わず買ってしまいました。



シリヤラインの船
バルト3国から西ヨーロッパへ行くにはいろいろなコースがありましたが、道中船旅があっても良いなとかいって、タリンからヘルシンキ迄はシリヤラインスーパー・シー・キャッツ・フォーで行く事にしました。ホテルから港まで近いけれど荷物があるので朝タクシーを頼みました。チケットはフルソフィアに頼んでおいたのでホテル到着時に入手しました。ターミナルの出発ロビーは2階にあり、エスカレーターで上れました。事前購入のチケットを持ち、カウンターの列に並びチェックイン(乗船券に交換)をして乗船です。出国のコントロールはありませんでした。1時間30分のクルージングでしたが、もっとゆっくりした船もあるそうです。勿論船の中には無税店もありました。

フィンランド

ヘルシンキ
船から飛行機への乗り継ぎの空いた時間(9:10-14:55)を利用して買い物をします。

Arabian Museo(アラビア美術館)
到着後パスポートコントロールを通過して入国、荷物をロッカーに放り込み、タクシーに乗り込み「Arabia Factory and Museum」へまっしぐら、20分ぐらいで到着、お目当てのアラビア製品の工場直売所です。アウトレット製品が山ほど積んであり、赤札・黄色札があり市販より安くなっています。もちろん定価のものもありますが、掘り出

定番
ムイックのフライ
し物がいっぱいです。アラビア陶器だけでなくイッタラグラスやハックマンの台所用品なども扱っています。ヘルシンキでちょっと時間のある方はお奨めです。トラムの6番の終点です。 大きなスーパーのようで、カゴに入れてレジまで運んでおしまい。船便で日本の住所まで送ってもらう依頼をすれば、向こうでパッキングもしてくれます。保険に入れば道中の破損の保障もしてくれます。
びっくりしたのは帰国したらすでに荷物が届いていました。
購入後は再び港にもどり、市場では定番の「いわしのフライ」を食べ元気を出して、荷物を運び出し飛行場へ、バルトに別れドイツへウイーン経由で行きます。

Arabia(アラビア)社,この社名なぜアラビアなのでしょうか?
実はこれはアラビア社のある住所の通りの名前なのです。社屋は現在Arabia Factory and Museumという人気スポットで住所はHameentie153となっていますが、一時通りの名前に国名を付けていたことがあり、ここはArabia Streetだったのです。(日本通りもありました。)それが陶器の名前となって残っているという訳です。