| バルト3国ドライブ旅行 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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リトアニア(77)・ラトビア(78)・エストニア(79)のドライブ旅行 2003年7月 天山北路を西安からカザフスタンにかけて西域を旅しようと考えていましたが、例のSARSの流行で中国への渡航が難しくなり断念、それなら影響のないバルト3国へ行こうと、ツアーを申し込もうとしましたが、日程が合わないので、個人で計画して出かけることになりました。 バルト3国まで行くなら、想い出の地ハンブルクへ寄ろう、ついでにエリカ街道もいい、それならミーハー街道
リトアニア共和国の夏はほかの2国にも共通していますが、白夜があり22:00くらいまで明るく、旅行者にとっては大変便利です。でも、調子にのって何時までもブラブラしていると翌日がきつくて「ナンデダロー」なんてことになります。 ![]() KLMはアムステルダムでリトアニアALに乗り換え、ヴィリニュスに ![]() ホテルの朝食ブッフェは我々だけでした。身支度をして出発です。人様の家の様子を知りたかったら台所を覗くのが常套手段、まずは市 場に繰り出しました。屋内は肉・ハム類や魚類、外は果物や知らない野菜でいっぱいです。グランベリィー・ラズベリィー等が山積みです。採れたてを運んで来たのでしょうか、盛んに売買していました。みんなフレッシュです。ほしいけど無駄になるのでやめました。市場外には![]() ![]() 旧市街の城壁入り口で唯一残っている城門で、当国の紋章を見ることが出来ます。右側には中世の城壁が続いています。1503年からタタール人の侵入を防ぐため造られたものです。門をくぐると、旧市街側に脇階段があります。登っていくと小さな礼拝堂があり、敬虔な地元の人達が黙々とお祈りを捧げています。思わずこちらも真剣な面持ちになってしまいました。ここの聖母のイコンは奇跡を起こす力があるそうです。 その先を行くとすぐ右側に聖テレサ教会 この町の教会の多さには驚きを感じます。どの教会でも、もくもくと祈りを捧げている人達を見ることが出来ます。その雰囲気が町全体に広がっているのです。 ![]() さらに進むと右側にピンクのかわいらしい門が見えてきます。奥にはおおきな教会がそびえ建ち多くの人たちが行き来していました。精霊教会のゲートです。リトアニアにおけるロシア正教の大本山で修道院としては唯一とか、メーンストリートの夜明けの門通りの左右には歴史に残る建物が並びます。朝早かったので観光客もまばらでゆっくりと見学できます。聖ヨハネ教会を左に見て、東の古びた通りを行くと、精霊教会の入り口![]() ![]() 夜明けの門通りからディジョイ通りビリエス通りをまっすぐ北に向かうと大きなカテドゥロス広場が広がっています。サンサンと輝く太陽のしたに大きくそびえるのがヴィリュニスのシンボル大聖堂(アルキカテドォラ)主教坐教会で)です。最初13世紀に十字軍騎士団の圧力から逃れるためにキリスト教を受け入れたミンダウガス王によって建てられました。その後また自然崇拝の聖地に戻されましたが、1387年ヨガイ公によって再びキリスト教化され教会が建て直されました。現在のクラッシック様式の建築は18世紀のものです。またソ連時代に撤去された三聖人の像は独立後の1996年冬に正面の屋根に再び添えられたのでした。脇にある鐘楼(53m) ![]() 1989年8月23日午後7時モロトフ・リッペントロップの秘密協定記念日に、ここの地
このウジュピオ橋を渡り町に入ると小広場にラッパを吹き鳴らす天使像が建っていて、2002年に市長が独立宣言をし、今までの遅れていた地域から、芸術家や学生が多く住 む町に変化させていったそうです。毎年4月1日は通行にパスポートが必要だとか・・・。街中は観光客もまばらであり、なかなかいい味を出しているところです。入り口のプレート
![]() 今日の17:00に
W「ハロー事務所はどうして閉まってる?」 H「大丈夫です。17:00には事務所に行きます」 H「車予約の件は承知しています」 W「あんまり脅かすな!!・・・」 H「ホテルはどこですか?よろしければ車届けます」 W「OKコンチホテルに17:00に届けてください」 で連絡はすみましたが、チェックできなければ他社で予約をするところでした。 予定どおり17:00にはホテルで車をゲットできました。事情を聞きましたら、普段は空港事務所に常駐していて、必要に応じて市内の事務所に来るそうです。 車はオペルASTRA1600 4ドアー・マニアルで新車です。フロントバンバーに少し傷がありチェックマークを入れて借り上げ、ボンネットと給油口の明け方を聞きOKです。いよいよ明日からドライブの始まりです。 車を受け取ってから、郷土料理を食べに再度旧市街へ入りこみました。
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荷物をトランクに入れてエンジンスタート。朝の出発はいつも気持ちのいいものです。ホテルで町からの出方を聞いておきましたので何とかスムースに郊外へ出ることが出来ました。どの町でも入る時はセントラル(町の中心)を目指してくれば何とかなるものですが、出るときは逆方向へ行ったりすると大変なことになります、難しいものです。郊外へ出ると、道路はすいているし、道端には花が咲き、牛などがのんびりと草などをはぐくんでいる様子を見ると、楽しくなります。 104号線からトウラカイ城を湖の向こう側に発見、旅行書にはバスターミナルから歩いて15分と書いてありましたので、ターミナル近くに駐車して歩き始めましが、城の方向にどんどん車が入っていくので、ターミナルに戻り、車で再度向かったところ、 (注)得てして旅行書は、バス電車のたぐいでの行き方が多いので注意です。 ![]() 湖岸からの城は話題どおりすばらしい眺めでした。まだ朝早かったので城門はしまっていました。それでも、城壁を一周してみました。湖のほとりにはいくつかのヨットが停泊しており、観光客を案内するそうです。誘われましたがお断りしました。彼等はそのヨットで生活していました。橋のたもとは「琥珀」が安くて有名な売店がずらりと並んでいましたが、MIはお気に召さなかったようです。ほとんどが偽物とか・・・?。琥珀の売店 リトアニア第二の都市カナウスは両対戦の間ポーランドに占領されていて、首都でした。 ![]() ![]() カナウスも良くわからない町なのでセントラルを探して街中へ、いろいろ迷っているとカナウス城のまん前に出ました。「ここはどこなのか」分かれば後は簡単、旧市街でも車はスイスイ入れるし、主だったところにはたいてい駐車場の用意があるので気にしないでどんどん入りこんで見ました。この市庁舎はバロック様式で、白鳥に例えられるほど美しいもので、1542年に礎石が置かれ、18世紀に建て直されたものです。旧市庁舎はどんと構えて広場の真ん中、りっぱなものでした。 ![]() ![]() おおまかな地図しか持っていないので感だけが頼りで、旧領事館を探します。バスターミナルの手前を入って、モスクの脇から行けそうですが、なかなか見つかりません、住所は近いのですが、ご近所らしき人に聞いてもチンプンカンプン、再度モスクまで戻ります。2ブロック東側で さっそくベルを鳴らして見ると、中から青年が出てきました。SIMONAS DOVIDAICIUS君という独身のユダヤ人でした。彼はここの館長で杉原記念館を管理しているそうです。杉原氏のオフィスや当時の様子の説明を興味深く聞きました。その後ビデオも見せていただき、改めて戦争や民族間の争いが無意味な事だと認識しました。杉原氏の人道的な行為を賞賛し、自分の将来とか家族とかを考える前に「良心的な人間」であろうとする彼の姿勢にはまったく感動しました。 見学後一路ラトビアに向かいます。 ![]()
気持ちよく街道を走っていると、道端に産地直売所?があるので、立ち止まってみますと、農家の親子(母・息子)が今採りたての 「 突然「十字架の丘」を見たいと言い出しました。ショートカットすれば、それほ遠くはないらしい。いつものように突然予定を変更してRamygalaからショートカットSeduvaへまわるコースに変えました。わき道に入ってみると、それが相当なダート道、安全の為速度は落ちるし、乗り心地は悪い・・・。でも、ヨーロッパの田舎道をゆっくり走るのも悪くはないものです。緊張し、ボケ防止にもなりました。一般道では100qで走っていましたが、40qほどの稼ぎでしょうか。意外と時間をとられました。![]() Siauliai市をバイパスして10kmも走ると右方向の小高い丘に、なんとなく十字架の固まりが見えてきます。Kalnasの標識を右折しますとまもなくはっきりと丘が見えてきました。草原に広い駐車場があり数台の車が来ていました。訳も判らずミーハー夫婦も「木の十字架」を売店で買い、旅の安全を神頼みするのでした。この丘の始まりは1831年ロシアへの反抗で処刑された人達への追悼の思いからとか、定かではないようですが・・。ソ連時代には丘は立ち入り禁止だったそうですが、KGB等がブルトーザーで十字架の山を壊しても、いつの間にか新たな十字架が立ったといわれています。なにもない小さな丘に無数の十 字架の山を見るとき、名もなき庶民の怒りや執念や喜びを感じることが出来るのです。今は止める人もいないので、これがどんどん増幅していくのでしょう。尚、ドマンタイのバス停留所からは15分では行けそうもない感じでしたが・・・。ノンビリと国道A12を北上していくと畑一面まっ黄色な菜の花畑 [国境での出来事] さてここで問題が起きました。ラトビアの入国ゲートに着いても誰もいません。夕刻ですから他の車もいないのです。普通昔のEUですと、パスポートを窓からかヒラヒラかざせばOKですのでそのつもりで国境を跨ぎました。そして、駐車場に車を置いてからパスポートを持って先の検問所に戻ってみると、係官が出てきて 係「君はノーチェックで入国した」 W「停車したが誰も人影が見えなかったのでライン通過後このようにパスポートを持ってきたのだ。」 係「上司に相談したら逮捕かリトアニアに戻れとの事だ」
W「それはないだろう、リトアニアにもどれば再度入国可能か?」 係「今日はだめだ、明日なら入国可能だ」 W「ホテルの予約もあるし何とかならないか上司に相談してきてくれ」 彼は一旦事務所に入り出てきた。 係「上司は怒っている、向こう5年間は犯罪者リストに載り入国できない」 W「それでは罰金支払いではどうか?ここに60LT(¥2400)とUS$50あるがもって行け」 係「ラトビアの金15LS(¥3000)欲しい」 W「今入国したのに持っているわけがないだろう」 係「では」と彼はどうやら60LT(\2400)をワイロとして受け取り、我々はラトビアに無事?入国したのでした。 教訓:国境ではチャント、ラインで停車しましよう。 PS:通算100以上の国境を通過していますが、ワイロ的要求に会ったのは、イラン入国とトーゴー入国と3回めです。
地理的にもバルト3国の中心に位置し、経済的にも他の都市を一歩リードしている都市。1201年に歴史上登場し、13世紀にはハンザ同盟に加盟して、町は急速に発展してきました。16世紀から19世紀にかけてリーガはポーランド・スウェーデン・帝政ロシアの支配下に入り、町は荒廃したこともありましたがソ連から独立した後、復興し魅力のある町に変身しています。 旧市街の西側に流れるダウガヴァ川の向こう側にあるラディソンSASホテルにチェックインしてから、車で旧市街へ「11月11日通り」際の英国教会近くの路上に ![]() ![]() 外から見ると、地面が沈み込んでいて、教会が出来た頃と路面の高さが大きく変わっているのがわかります。1211年にアルベルト僧が建築を始め、その後何度も改築が行われ、18世紀に現在のような姿になりました。そのため、どこがどうだか分かりませんが、ロマネスクからバロックに至るまでが混在しているそうです。
町全体は
. リーガ出発の日、朝起きて車のところに行ってびっくり、パンクしています。昨日のダートでのドリフト(逆ハンドルで砂利道コーナーを高速で抜ける技)の付けが回って来ました。幸いにもスペアータイヤはしっかりしていましたので簡単に交換終了。でもスペアのパンクは不安ですから近くに工場があればスペアタイヤのパンクも直しておきたいものです。まずはタイヤ修理工場を捜してパンク修理の依頼をして、そこでMIを中央市場まで送り彼女は買い物と見学、私は再び工場へタイヤを取りに行きました。800円で修理してくれました。バランスも取ったようです。安いですネ・・。 ![]() この4連の大きなドームはドイツのツッペリン(飛行船:リトアニアの料理に名が付いていました)の格納庫
[国境で] こんどはへまは出来ません。検問所の停車位置でぴったり停車、パスポート・国際免許書・レンターカーの保険証を持って下車。係官から簡単な質問(関税申告はないか?等)、運転席側の床に車両NOの刻印がありそれと書類が一致しているのかチェックしていました。入国スタンプを押して出発。こんどは本当の無事通過でした。 ![]() ![]()
写真は旧市街から見たヴィル門と宿泊したヴィルホテルです。ホテルから旧市街まで数分で行けますので大変便利でした。ここからが下町への入り口、入ってすぐ右側には13世紀に構築された城壁が続いていて、 唯一かわいい手袋をゲットしていました。市中の御土産屋より安いのですが、協定があるらしく、ディスカウントはしないようでした。 この入り口のヴィル通りを進むと旧市庁舎が見えてきますが、そのあたりが店も多く、山の手から来る観光客との交差点になっていますので、さまざまな人々の様を観察することができ、しばらくじっとしていても飽きの来ない場所でした。 ![]() 1991年に独立を回復したバルト三国は
市庁舎前のレストランPeppersackのテラスで食事、地鶏のグリルとミックスサラダを注文、これがすこぶる旨い、街行く人達やマフォーマンスを見ながら日陰になったテラスでグラスを傾けるとき、バルチックの国々での楽しかった出来事が走馬灯のように思い出され、次の旅への期待が高まるのでした。
![]() 一歩旧市街から新市街へ出ると、そこには新しい何処にでもある東ヨーロッパとロシアが持ち合わせているものがミックスした町並みが続いているのです。ブランド販売店、スーパーやデパート、コンビニにMAC等を目にすると、中世から現代にタイムスリップしたような思いにかられました。 さて、地元のスーパーでこんなものを見つけました。オーストリア扱いの即席ラーメンですが、名前がずばりMIでしたのでビックリ思わず買ってしまいました。 ![]() バルト3国から西ヨーロッパへ行くにはいろいろなコースがありましたが、道中船旅があっても良いなとかいって、タリンからヘルシンキ迄はシリヤラインスーパー・シー・キャッツ・フォーで行く事にしました。ホテルから港まで近いけれど荷物があるので朝タクシーを頼みました。チケットはフルソフィアに頼んでおいたのでホテル到着時に入手しました。ターミナルの出発ロビーは2階にあり、エスカレーターで上れました。事前購入のチケットを持ち、カウンターの列に並びチェックイン(乗船券に交換)をして乗船です。出国のコントロールはありませんでした。1時間30分のクルージングでしたが、もっとゆっくりした船もあるそうです。勿論船の中には無税店もありました。 船から飛行機への乗り継ぎの空いた時間(9:10-14:55)を利用して買い物をします。 ![]() 到着後パスポートコントロールを通過して入国、荷物をロッカーに放り込み、タクシーに乗り込み「Arabia Factory and Museum」へまっしぐら、20分ぐらいで到着、お目当てのアラビア製品の工場直売所です。アウトレット製品が山ほど積んであり、
購入後は再び港にもどり、市場では定番の「いわしのフライ」を食べ元気を出して、荷物を運び出し飛行場へ、バルトに別れドイツへウイーン経由で行きます。 ![]() ![]() 実はこれはアラビア社のある住所の通りの名前なのです。社屋は現在Arabia Factory and Museumという人気スポットで住所はHameentie153となっていますが、一時通りの名前に国名を付けていたことがあり、ここはArabia Streetだったのです。(日本通りもありました。)それが陶器の名前となって残っているという訳です。 |