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中東に広がる古代遺跡の旅 2002年6月

 ツーリストポリス
ヨルダンに入国するとバスに一人の警察官が乗り込んできました。ツーリストポリスだそうです。拳銃と手錠持参で旅行中旅行者の安全のために最後まで同行するとのことでした。観光が国としての産業を大きく担うことならば、何とかして9月11日の事件やイスラエル間との軋轢等は観光客とは関係なく安全なのですというメッセ−ジなのでしょう。
案外お茶目でしたが頼もしいかぎりです。
  ヨルダンのレストランのパン焼き釜
ジェラシュ近くのレストランで食事。やっと大きなパンに出会えました。直径60cm厚さ3cmもあるでしょうか、 焼きたてパンがテーブルに運ばれてきました。この香ばしさは本当のご馳走です。前菜やサラダやペーストにも慣れ、食事を楽しむことが出来るのです。が、このあたりから、かなりの人が腹痛を訴え始めてきた来たようでした。やっぱり生野菜とカットフルーツは 赤信号でしょう。
このレストランを出ようとしたら、東洋人の団体客から声がかかりました「日本人ですか?」そうですと答え、そちらはと聞くと「インドネシアから」との事でした。女性の皆さんは頭にベールをかけていました。モスリンなのでしょう。こんな異郷の地で同じ東洋人が出くわしたので思わず握手をしてしまいました。「日本はトルコに負けたヨ」と言うと一同本当にがっかりしていました。
(1C末〜3Cローマ時代)
 フォーラム(オーバルプラザ)
イオニア列柱で囲まれている広場
ローマ人が来る前からジェラシュは集落として存在していました。紀元前332年アレキサンダー大王がこの地一帯を襲った頃からです。その後セレウコス朝の崩壊後ローマ軍が紀元前64年ここを植民地とし、ダマスカス・ペラ・ウム等10の都市からなる連合デカポリスを形成しました。

列柱道路
フォーラムから北門まで列 柱が並び、600mの石灰岩石畳には当時のキャラバンの轍の跡がはっきりと残っており、何時しか2000年前の街道に自分が飛び込んでしまいます。現在15のビザンチンの教会等が発見されていますがまだまだ地中には多く残っているそうです。
 アルテミス教会
南門から北門に抜けるカルド800mには2本のデクマノスが四面門を目印に交差しています。当時厚さ3m、全長3.5kmの城壁がジェラシュ全体を守っていました。
それはそれで暑くなってきました。水水 という感じです。
入り口近くの売店でアラビア皿を$3でゲット、パンを乗せるのに良さそうです。案外廉かったと思います。
海外のお土産は我が家では生活用品や食品が多いのです。帰国してからの料理が美味しく頂けて二倍楽しめます。

アンマンはヨルダンハシミテ王国の首都、人 口150万人海抜800m、街の北側西側は新市街、東側と南側は旧市街9000年前の先史時代から人類が住んで集落を形成していた街、旧約聖書には「ラバ」という名で登場します。BC3Cエジプト・プトレマイシオ二世が占領しギリシャ風の都市を建設をしました。ヘラクレス神殿
AD1C〜パレスチナに広がるギリシャ様式の都市群デカポリスのひとつとして交易の拠点として栄えました。 近くに残る半円形劇場現役ですが破損個所が多く音は今ひとつとか、市の中心にあります。

 シーレベル0地点
死海まで15kmの地点、ここは海抜0mを表しています。ここから下ること400mそこには出口のない湖DEADSEAがあります。地球上の地上でもっとも低い所です。アンマンが標高800mですから、高低さ1200mも下がったことになります。低地だから気圧が高く空気が濃いから ゴルフをやっても 飛ばないか等と心配しています。

ヨルダン軍の車両
この道をまっすぐ行けばイスラエル国境、各所に軍隊が派遣されています。世界最古の町エリコをとおりエルサレムへと続いています。
 死海の海岸 その向こうはエルサレムです。
アラビア語でロトの海と呼ばれてい ます。聖書には「ロラバの海」「東の海」と記され、面積800〜1000u長さ60〜80km幅18km海抜△400m、ヨルダン川とその支流が流れ込みますが出口はありません。塩分と鉱分が濃く、海岸では15分が水浴の限度として、一度出てシャワーを浴びて再び入るのがベターだそうです。泳ぎ?に飽きたらホテルの プールで泳いでも良しのリゾート感覚です。現在ホテルが2軒ありますが、もう一軒建築中でした。
 このように浮かんでしまいます。
これぞ小学生のころからの夢、死海で浮かぶこと、足と手を水面下に入れればもっと良く浮きます。背泳ぎ以外は出来ません。水面に向こうと するとお尻が飛び出てしまいひっくり返ってしまいます。さすが塩分は25%以上、海の7倍の濃さがあるから感触は少しねっとりとした感じ。水はただ蒸発するのみ、だから塩分は濃くなってしまいます。 傘もさせます。ミネラルが多く含まれているとかで、食べる塩よりもマッサージ用の塩や泥パック(泥パックのルーツ)等のお土産が盛んに売られえています。もちろんMIは買ってきましたが、その効果があったかどうかは定かではありません。眼に水が入ったら翌日まで痛かったそうです。カメラをビニールの袋から出してチョット写しただけで、カメラは塩を吹きます。感激と驚きでした。
いよいよ今回のハイライト
とはギリシャ語で「岩」のこと
 ペトラ入り口
いよいよ馬に乗って出発です。もう インディジョーンズ「最後の聖戦」そのまんまです。
入り口から1.5kmほどは馬車や馬・駱駝・ロバに乗って砂利道を行きます。左側にはオリベスクの墓が見え、様々な遺跡群が顔を出してきます。馬上から見るこのパノラマは時とともに色が変わり、見る角度によって色が変わります。2000年以上前にこの地を支配していたナバタイ人達も同じ風景を見たのだろうかと想像するだけでわくわくする道行きです。
シークは細い岩の割れ目の道で高さ60m〜100mほどあり、水と風で削り取られた自然な道です。両側には上下水道が掘られています。
馬から降りて長いシークを30分ほど歩くと突然それは眼の前に現れました。
        
 これがあの「エル・カズネ」だ(午前)
皇太子ご夫妻がヨルダンを訪問した時、阪神大震災がおき旅行を短縮しましたが、ここだけはご覧になった場所です。
2000年以上前からアラビア半島から来た遊牧民のナバタイ人やベドウィンによって栄えた中継都市。岩肌をくりぬいた遺跡建築群には圧倒されます。それぞれが別の顔をもち、時間とともにその岩の色が変化し、同じ場所にたたずみ観察しているだけでみるみる色が変わっていく。このエル・カズネの本当の色はどれなのだろうか。朝日が当たるように設計されているが・・・。中もみごとにくり抜いてあり、宝物殿らしき部屋にはどんな宝物が隠されていたのでしょうか。中に入ると空気はひんやりとしていて別世界、瞑想に耽れば、俗世間の事が脳みそのひだからぼろぼろと落ちていくかもしれないが・・・。 午後のエル・カズネ。
数十分ベンチにたたずんで見ていたが、腰がなかなか上がらないほど魅力的でした。。
 王家の墓群
さらに奥に進んで行くと右側山肌に王家の墓群が連なっています。
これはアーンの墓です。3階建の墓、登って見るとここの景色もなかなかのもの、内部も見事な部屋と大きなテラスがありました。
ペトラは標高950mここから北に位置するベイダには900 0年前の新石器時代の集落の痕跡があることから中東で最も古い歴史をこの地域が持っていることをあらわしています。
BC6Cナバタイ人が定住。
BC4Cセレウス朝の襲撃で被害を受ける。
BC63年ローマ帝国が兵を派遣するが、和平を結んだ。 ロバと少年

凱旋門
BC31年ユダヤの王ヘロデの攻撃を受け領土を失った。
AC2.5世紀に再びローマ帝国の支配をうける。
363年大地震があり町は壊滅状態になり6世紀には人が住まなくなった。
7世紀にイスラム軍が到来し12世紀には十字軍が砦を造ったが、人々からは忘れ去られていきました。
1812年スイス探検家ヨハンがダマスカスからカイロに行く途中ペトラの噂を聞き遺跡を確認し、世界に知らしめました。
 エド・デイル
エル・カズネから1時間ほど山道を歩きますと、谷の一番奥にある遺跡:2〜3C(AC)2階建ての葬祭殿がありました。高さ45m幅50m、 一階の入り口高さ8mです。後世になりビザンチン時代の壁面に十字架が刻まれていたため「エド・ディル(修道院)」と呼ばれるようになりました。
ホテルに咲く花は色とりどりで美しい。


 モーセの泉
モーセが岩を杖で打つと水が湧き出てきたと言われている泉。
あちこちにあるらしい。
この地マバダはアンマンの南60kmに位置している。フルーツジュースの名で知られているように肥沃な土地が続き、重要な地域でもあった。ビザンチン時代は25の教会があり、ネボ山の麓にあったので巡礼者の重要な休息地でした。
日本に帰ったらもう一度 映画「十戒」を見なければ・・・。

 ネボ山の複合教会
預言者モーセが死の直前に登った山「ネボ山」に聖ジョージ教会があります。ここの山頂からは死海・ヨルダン川・エリコ・エルサレムを見渡せます。この教会は複合式で「モーセのための教会」「洗礼教会」「聖マリア教会」と中で分かれています。1933年からフランシスコ教会の手で管理されています。ローマ法王の聖パウロ二世が訪れたモニュメントと右のような「モーセの杖」が建っています。
ヨルダンのアンマン国際空港からレバノンのベイルート空港へ
5. へ再び

 大統領府
レバノンとイスラエルは地中海に面した美しい国、第一次世界大戦でオスマントルコからこの地域を奪い取ったイギリスとフランスが植民地化を継続するために作り上げました。数では圧倒的に多いイスラム教徒を圧するため、少数派であるユダヤ教徒にイスラエルを建国し、マロン派キリスト教徒等にはレバノンを建国させ、反イスラムの防波堤としたのです。
しかし、レバノン国家の構造には致命的な欠陥がありました。 大統領をマロン派のキリスト教徒、首相をスンニー派イスラム教徒が担当、シーア派イスラム教徒には名誉職的な国会議長が与えられました。しかも議員割り当てはキリスト教徒:イスラム教徒=54:45でした。これでイスラム側から不満が出ないほうがおかしな話です。
1970年ヨルダンを本拠地にしていたパレスチナ人は政府から追い出されてレバノン南部に終結し、ゲリラ化(PLO)してイスラエルを攻撃し始めたのです。そこでマロン派キリスト教徒民兵がパレスチナ難民に攻撃を加えました。この事がきっかけでイスラム教徒とキリスト教徒の間で全面的な内戦へと発展してしまいました。そして1996年の停戦まで16年間内戦が続いたのでした。 国内の至るところに兵隊がいます。だから安心です。今はすばらしい国になりつつあります。

傷跡が残るショッピングセンター
街の中心から南東に延びるダマスカスどおりで東西に分かれ、東側がキリスト教徒区で西側がムスリン区であり、ダマスカス通りはレバノン内戦の停戦ラインでもあり、グリーンラインと呼ばれています。
それでも市民はいたって明るくフレンドリィーであり、グリーンラインを行ったり来たりしているのです。再建を目指す町中が活気づいており、クラクションの鳴り響く様は元気な上海を見ているような気がしました。きっと大きく甦る国の一つだと思います。
 市中に残る遺跡
レバノン山脈とアンチレバノン山脈そしてベーカー高原を持つこの国と街は、地中海にも面していることもあって、歴史の十字路であり、古代から現代に至るまでの遺跡がいたるところにあり、建築のため新たに掘り起こせばどこにでも古代遺跡が出てくるのでしょう。この写真の遺跡もローマ時代の浴場の床柱でありその上にレバノン杉の床を張れば今でも使えそうなしっかりとした遺構でした。
また、レバノンに住む人々は古代フェニキア人の子孫が多いそうです。古くから国際通商の舞台で鍛えられた民族ですから、平和を取り戻しつつあるこの国は商業、農業、観光業を中心として今後どんどん発展行くことでしょう。
インシアッラー(アラーの神が望むなら)是非また来てみたい、中東のツアーでした。
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