12.![]() ![]() 戦争が続いた国々への旅 2000年11月 ![]() ![]() ![]() 首都プノンペンの最初の観光はこれです。なんだかわかりますか? ![]() ![]() 悪名高きポルポトが作った処刑場跡です。1975年4月からの「クメール・ルージュ」ポルポト政権時代には1000万人いた人口が700万人に減ったそうです。当時200万人以上の人々が虐殺されたと言われています。この塔の中に数え切れないほどの被害者の骸骨が納められていますが、まだまだ掘り起こしていない場所が多く残っているそうです。特に知識人やその家族が多く虐殺されたそうです。彼等の残虐さがおぞましく、人類は何故何度も同じことを繰り返すのだろうか、やりきれない気持ちになりました。それは日本から僅か数時間で行ける国で16年前の話です。まだまだタイ国境やベトナム国境の山岳地帯には多くの地雷が残っているそうです。 中東のパレスチナやアフリカの一部では今日も戦いが繰り広げられています。早くそれらの国々にも平和が来ますように・・・合掌・・・。 ![]() ![]() あのシアヌーク殿下が住む王宮です。アジアの中でも極貧といわれる国にあってここだけが輝いています。 でも、シルバーバコダ(床が銀で出来ている寺院)や国立博物館には僅かながら歴史的意味のあるものが残されています。遺跡の中で価値のあるものや古いものは昔はタイ、近年ではフランスが植民地時代(1863〜1953)にほとんどを持ち出してしまったそうです。返して欲しいですネ。 ![]() ![]() この国の歴史は他国の侵略と、国内での戦いの連続でした。しかしながら、1953年にフランスから独立を勝ち取りました。その記念塔が誇らしげに市の中心にそびえています。いまやっと平和が訪れたように見えました。 しかし、我々が帰国後の2000年11月24日の早朝に80人もの反ベトナム派の武装兵が市中をロケット砲等で攻撃し、銃撃戦が繰り広げられて数十人の死傷者がでたそうです。まだまだ本当の平和は来ないのかも知れません。でも、人々の笑顔はすばらしく、バンテアイ・スレイ(遺跡:女の砦)のデバダーのそれ以上の感じがします。これから、きっとすばらしい国になると思います。 ![]() ![]() プノンペンではインターコンチネンタルホテルに宿泊しましたが、生水は「うがいも歯磨き」も出来ないほど衛生状態は良くないです。ホテルサービスのミネラルウオーターで顔を洗いました。 それでも、料理は大変おいしい国で、スープ鍋や野菜料理、そしてエレファントフィッシュ(象魚)も新鮮で美味でした。 シェムリアップ空港から車でブノン・バケンの丘へ ![]() ![]() 1113年スールヤバルマン2世がアンコールワットの造営を開始しました。 プノンバケンの丘から夕日に輝くアンコールワットを眺めるのが定番のようです。 さっそく登って見ました。山頂の東側には遥か遠くにアンコールワット寺院が見え、西側にはかって黄金の稲が年3回の実ったと言われる西バライ(8km×2kmの大貯水池:11世紀末)が大きく広がっていました。 ![]() ![]() ![]() 12世紀、ベトナムのチャンバ軍を打ち破ったジャヤバルマン7世(クメールの覇者)の時代に造られた都城は周囲12kmに及ぶ城壁に囲まれた広大なもので、5の門を持ちその一つがこの この大きさは今でも大型バスが十分通れるほどのものでした。 その中心が大乗仏教のバイヨン寺院です。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 世界を見下ろす四面仏と人間味あふれるデバター(女神)と回廊にあるレリーフは圧巻でした。当時の生活様式が美しく表現されています。 ![]() ![]() ![]() ジャヤバルマン7世の母の菩提寺タ・プローム(梵天の古老)は発見当時の形を残すためにスポアン(熔樹)に覆われているままにしています。この樹木を排除すると建築物が崩壊してしまうそうです。自然の大きな力が働いています。その根っこは生きているようでした。 ![]() ![]() ![]() バンテアイ・スレイは「女の砦」の意味だそうです。967年のヒンドウー教の建物で、赤いラテライトで全体が出来ており中央の伽藍も燃えているような美しさでした。 このデバダー(東洋のモナリザと言われる女神像)はフランスの作家アンドレ・マルローがあまりの美しさに、盗掘し海外に持ち出そうとして逮捕され小説「王道」に記されたものです。 ついに来ました世界遺産のアンコールワット ![]() ![]() ![]() ![]() 宇宙の神秘が凝縮されているような、それでいてどっしりとした構えを示し、全ての人々を受け入れてくれるような神々が住むアンコールワット。9世紀から15世紀に広大な領土をも持ったアンコール王朝時代の12世紀にスールヤルバンマン2世により建立され、1300m×1500mの堀で囲まれています。 フランス人のアンリ・ムオに1860年ジャングルの中に眠るクメール人が築き上げた壮大な王国跡が発見され、数百年の眠りから覚めた、目の前に広がっている空間は人々の興味と興奮がいつまでもさめやまないほどの感動を与えてくれ、まさに世界遺産にふさわしい雰囲気をかもし出しています。そしてそれは西(インド)を向いているヒンドウー教の大伽藍なのです。 歴史的に見れば、ギリシャ、ローマ、エジプト等の遺跡に比べられないほど新しい時代の建築物ですが、その風格たるや、決して劣るものではありません。 ![]() ![]() 中央祠堂に行くにはこの急斜面を登らなければなりません。これらの遺跡のほとんどが急階段を登らなければならない構造になっているので、高所恐怖症の人にはきついかも知れません。この階段はあの槍ヶ岳の山頂直下の登りに似た感じがしました。 一気に登れるといいのですが、途中でストップしてしまう御夫人などがいて、恐ろしい目に会うことがあります。 ![]() ![]() 中心部の十字回廊には4つの沐浴場があり、それは王国が農業における灌漑に必要な貯水池の支配をしていた事を象徴しています。訪問した時期は雨季も終わり水は涸れていました。 祠堂の内部 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 「聖なる剣」寺院、入り口近くの参道には灯篭のような物が連なり、妙な気分です。1191年にジャヤヴァルッマン7世の父王の菩提寺として建立された戦勝記念の建物。中央祠堂の北東に建つ二階構造のギリシャ神殿風建物は王が兵を閲兵したところ。6世紀頃にはローマ人もここら辺りまで来たとのこと・・・ですから。 ![]() ![]() 雨季(4月から10月)も終わったはずですが今年はいつまでも雨が残っているそうで、ニャックアポンの入り口もこんなありさまです。橋なんかないので、大井川の人足ならぬカンボジア人の自転車で渡りきります。MIも自転車ドライバー?もVサインです。往復一人1ドルは高いんじゃないの、足元を見られていますネ。 ![]() ![]() ![]() 「からみあう蛇」こちらでは蛇のことを長いから「ナーガ」と言います。 治水に関する信仰と技術を象徴する寺院だそうですが。ガイド曰く「薬草を栽培していた場所であり、今でも水草のような物が生えていますが、地元の人達は今でもそれらをありがたく頂き、薬として飲用している」そうです。 ![]() ![]() ![]() この地を象徴するような東バライ(灌漑用貯水池)は7km×1.8kmの大規模、現在は涸れています。その中央に建つのがこのメボンで、952年の建立、水に浸かっていた部分が色が変わっており当時の水位がわかります。この寺院は別名ゴールデンマウンテンと言われたそうです。当時の人達がいかに水をコントロールして作物を有効に産出していたかその高度な技術に感心するばかりです。また、周囲の四隅には象の像が立っていました。 ![]() ![]() ![]() 1955年から75年まで内戦が続いた国、その間150万人が戦死したと言われています。そして今やっと平和が訪れています。時を同じくしてアメリカ大統領のクリントンが訪問していたが、60年代のアメリカのやり口を見てきた私にとって「いまさら何を」と言う感じでした。 日本からこれらの国を眺める時、アメリカ映画の「キリングフィールド」や「プラトーン」は正当化してしまいますが、内側からこの地を見てしまうと、アメリカがいかに傲慢であったかが理解でき、あらためて物事には両面性があり、それぞれが正義をかざす時はよほど熟慮しなければ、あるべき姿を見失ってしまうものだと感じた土地でした。 ![]() ![]() 町なかは騒然としていて、バイクが道路という道路にあふれかえっています。なんでこんなに多いのか。信号も横断歩道も右側通行も関係ありません。世界の道でこれほど危険な場所を私は知りません。道路横断が命がけだとは・・・どうりで町には老人が少ないはずです。ですから「力車」に乗るのが一番安全?です。どこへ行くにも1ドルです。私達は2人乗ってしまいました。 ![]() ![]() 両国にはなかなか良いお土産が無いのですが、MIは今はやり?の派手なベトナムサンダルとバッチャ焼きのティセットをゲットしました。 ![]() ![]() グルメがいっぱいの国です。食べ物はほとんど美味しく頂きました。特に海鮮物は高級品でなく庶民の食べ物ですから、いか・貝・魚等新鮮で安くてうまいでーす。 道中の村落では生春巻きの皮を蒸気で蒸して作っていました。製作場所を見たら食べられませんか? 1$で50枚程くれました。 今回は駆け足の旅でしたが、近い事もあり、友達の家に遊びに行くような感じの旅行でした。つい最近まで戦いが続いていた国々ですが、人々はエネルギッシュで明るく陽気で笑顔がとっても似合います。 また、その国の中に入り込むと、我々が知り得ていた歴史が違う物に見えてきますから驚きです。カンボジアのガイドさんは「フランスの植民地からカンボジアを開放してくれたのは日本人です」と真顔で感謝していました。そんな事ってあるんですか・・・・・。 そして、両国とも、どこでもいつでもUSドルが使えるのには驚きでした。お釣りもドルでくれます。 END |