ドイツ・ドライブ旅行
ドイツ&スイスドイツ&スイスドライブ紀行
  
 
思い出のハンブルクとエリカ街道・ハルツ地方・ロマンチック街道 2003年7月

30数年前このドイツのハンブルクでMIと再会し、しばらくの間アルバイトをした懐かしの地を訪れることにしました。ここを基点として、エリカ街道やロマンチック街道を旅してスイスまで行こうという計画です。このハンブルクに住んでいるときは何も目に入りませんでしたが、再び訪ねるといろいろなものが見えてきます。

思い出のハンブルク

昔の「チーナレストラン・チャン」今の「国際飯店」
1972年10ヶ月ほどここハンブルグで過ごしましたが、当時二人でアルバイトをしていた中国料理店を訪ねてみました。記憶は遠くなるばかりで、大体の場所はわかりましたが、駅の形や街の風情が大きく変わっていました。行ったり来たりしていますと、なんとなく昔のストラッセを思い出し、やっと当時の店を探し出しました。外見はそのままでやっぱり中国料理屋でした。当時のオーナーも元気かなと店に入ってみました。マネージャーらしき人物がいましたので30年前の話をしましたら、経営者はとっくに変わってしまい、当時のことはまったくわからないとの事でした。オーナーのチャン夫婦やタイ人のスーリン達は何処へ行ってしまったのでしょうか。わかりません。しかしながら、店内の造作はそのままの形であり、懐かしく、食事をしながら感慨深いディナーをしました。

ボルボ40V
翌朝駅前のHARZを訪ねレンタルカーの手続きです。クーポンを国内で切ってきましたので手続きは簡単でしたが、鍵と書類を渡されて車は裏の駐車場の4階にあるから乗って行けと駐車場の料金券をわたされました。そこの守衛に券を渡し、出場券を貰い、エレベーターで4階へ行くと窓にHARZのビラが貼ってあるボルボワゴンがありました。キーを入れるとこれがその車とわかり、早速乗り込みました。1.8Lあるのでまあまあか・・。さあ出発ですが、どちらから出ればハンブルグから郊外へ出れるのかわかりません。なんとかやっとの事で1号線を探し出し、リューベックへの旅が始まりました。途中の商店でお菓子やミネラルウォーターを大量に買い込み準備万端です。尚、この車で旧東ヨーロッパへの持込は厳禁とされています。車両盗難事故が多く、現地では保険が効かないとのことでした。

エリカ街道エリカの花が咲く(見頃は8月下旬)街道を走りながら、レンガ造りの町を訪ねます。

リューベック

当時近くの町に住んでいましたがここに、こんなすばらしい町があるとは知りませんでした。バルト海や北海で取れた鰊などの海産物の取引場所であったので、各地から取引商人達が集まったそうです。ここから塩の産地であったリューネブルクまでの「エリカ街道」を旅します。

ホルステン門
この町はハンザ同盟の女王と言われた同盟の中心地であっただけに、町の入り口にあるシンボルのホルステン門は美しく堂々としていて、当時の威厳に満ちた様子が垣間見られ、この町が世界文化遺産であることを物語っています。この門は当時から地盤が悪く、傾いているのが写真でもわかります。入り口には「内は団結、外には平和を」の意味のラテン語の金文字を見ることが出来ます。

街中に入るとPマークがありこの門の脇に駐車場があったのでゲートをくぐり車を入れてから注意書きを読みましたら、元塩の倉庫を改造したショップで洋服や専用店の駐車場でした。出るには専用のコインが必要のようでしたが、帰りしなに何か買えばいいかとそのまま駐車して、町中へ入りました。(結局はなにも欲しいものがなく、ごめんなさいでコイン獲得でした。)

市庁舎、向こう側に塔が見えるのがマリエン教会

市庁舎は上薬をかけた、テカテカの黒光のするレンガ造りで重厚感があります。マリエン教会は1250年に建てられたゴシック様式、8512本のパイプをもつ世界最大級のパイプオルガンを持ち、バッハもこの教会の音色に酔いしれ、通いつめたそうです。



名物はアーモンドの粉で作った砂糖のお菓子「マジパン」、動物やフルーツの形をした多くの種類があり見ているだけで楽しくなります。MIもさっそくゲットしてました。評価はスペインのトレドにも名物として同様のものがありましたが、味はこちらに軍配があがるそうです。
マジパンの「ニーダーエッガー」店内とソーセージ屋台


ラッツェルブルク

大聖堂DOM
「島の町」と呼ばれているようにラウエンブルク湖の中に浮かぶ島に出来た町、堤防で島の間が繋がってしまい島には見えない小さな町です。車で3分も走ると街を出てしまいます。大聖堂DOMは入り口にライオン像があることでも有名でロマネスク様式のレンガ建築ではドイツ最古のものとか・・。観光客や見学者もいない小さな町と大きな聖堂は現代歴史の中から取り残されながらも気品をただよせながら保養地として静かなままここに存在するのでしょう。
町中は路上駐車場いっぱい有り、大聖堂DOM手前まで入れます。

メルン

オイレンシュピーゲル博物館
ラウエンブルク湖沼自然公園の中にある保養地で名前もわかり易い「メルン」は伝説のいたずらもの、交響詩に出てくる「Till Eulenspiegel」が空から見ている町。どうやらこの地で捕まり1350年に絞首刑にあったとか・・。小さいながらおもちゃのような雰囲気でかわいい町の印象、歩いてもすぐ町外れに出てしまう、丁度町の道路は工事中、普段でもわかり難い旧市街の路はなおさら判らなくなり、地元の車もあっちへ行ったりこっちへ行ったりです。
ザンクト・ニコライ教会
町中まで入れます。

リューネブルク

マルクト広場の市庁舎
10世紀ころから塩の生産地として栄えた町、各時代の建物が見事に保存された町並みはまさに建物の博物館。
「ゴールデンホワイト」といわれた塩の原産地であり1000年前の昔から栄えた町、ですから歴史を感じさせる建物が並び旅行者を飽きさせません。塩は北ドイツからロシア・北欧まで輸出されていました。いまは塩は何処にもありません。MIはなんとか町中のスーパーでパックものの「
塩と豆スープをゲットしました。



町並みの一部
1921年に自然保護地域の指定受けたこの町は車乗り入れ禁止でした。
Berliner Str.の路上に駐車できます。この町は車できたら是非寄るべきところです。


Bergstrom Hotel のレストラン お奨め度
 

牛があんなにいるのだか
らおいしいはずです。

サーモンのグリル、おい
しいチーズのソース添え
町を歩いていたAbtsmuhleのイルメナウ川の先にテラスレストランがありました。
今日はハンブルクのホテルインタコンチネンタルに戻るだけですから、ゆっくりと夕食をとることにしました。お客は多くの地元の人を含んだ外国人(我々も)たちで気分良く食事ができました。川からの風も心地よく、
ワインも料理に良く合いました。   

ツェレ

「北ドイツの真珠」ツェレ。色とりどりの木組みの家々がメルヘンチックな町並みを作り上げています。それぞれの家が楽しい色とりどりの壁と木組みを持っているので、どれをとってもメルヘンチックなモザイクのようです。それと個人的には町の名前が短く呼びやすいですネ。



17世紀にリューネブルクの領主ツェレ公のため建てられましたが、城をルネッサンス様式に戻そうとした改修工事が途中で終わってしまい、右がルネッサンス様式、左がバロック様式となっています。
町中に
観光馬車が走っています。





ホッペナーハウス
ツルナー通りは旧市街のメーンストリートで公爵たちが馬車で行き来していたそうです。これら周りの木組みの家々を良く見ると、建物面積より上の階に行くほどせり出して、面積を多く取っている家屋が殆どです。これは各旧市街で見ることが出来ますが、当時の税金が1階の面積によって決められていたため税金を軽減するため人々が工夫したものだそうです。そういえば日本の京都も昔は間口の幅で年貢を決めていたため間口が狭く、奥に細長い町屋が出来たことに似ています。ドイツは上部に日本は奥に建物を膨らましたことになり、市民生活のしたたかな旺盛力が見られ楽しいものです。
城前の広い道路にチケット駐車場があります。

ここまでがエリカ街道です。この先ハノーバーまで続きます。

MIが選んだ旅ハーツ地方

ゴスラーエリカ街道とロマンチック街道の間で楽しい計画を作りました。

マルクト広場に面した豪邸
ハルツ山麗銀鉱の採掘に伴い発展してきたハルツ地方の小さく見過ごしてしまいそうな町ゴスラー、皇帝ハインリッヒ3世が城を築き、11世紀から13世紀にかけては帝国議会が開かれたり、ドイツやヨーロッパの中心となった場所です。13世紀にはすでにハンザ同盟に加入し、西ヨーロッパに商売を広げていきました。鉱山で繁栄した町並みは、他の町の家屋と少し違い、木組みの家は豪華に装飾されていて、当時の豊かさが伝わってきます。
豪華に装飾された木組みの家、この町とランメスベルクの旧鉱山はユネスコ世界遺産に登録されています。

馬でなくBimmelbahnに乗り町中を見学しました。4EURでした。

セントラル近くまで車は入れます。路上駐車です。






ヴェルニゲローテ

ヴェルニゲローテ城
ゴスラーからBadharzburgをへて6号線に入ると丘の頂にベルニゲローテの城が見えてきます。小さい町なので地図なし町並みでお城を目指してくると登り口に駐車場がありました。そこにおいて取り合えず歩いて登っていきます。
350mの丘に建つ城はヴェルニゲローテ公爵が1110〜20年に建設、その後行く度かの変遷をへて現在の様になったのはオットー・トルベルク・ヴェルニゲローテ伯爵が1858年から始めた改築により、バロック&ゴシックの姿になりました。城壁からはこの地方でもっとも
古い家並を見ることが出来きます。

クヴェントリンブルク

マルクト広場の市庁舎とローラント
ハルツの山から流れ出たボーデ川のほとりに、木組みの家々がひしめきあう1000年の間、ほとんど戦災をうけなかった旧市街は、中世からあまり姿を変えないので、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。
この市庁舎の前に立っているのが町の自由と公正を象徴しているローラントの騎士像です。
城山はドイツ初代の王ハインリヒ1世の居城のひとつで王の死後、城全体は女子修道院となっています。

ロマンチックホテルテオファノ
雑誌に出ていたのでWEBで予約を入れたホテル。行って驚いたのはマルクト広場のまん前で、通された部屋は3階の角部屋でまさにロマンチックな雰囲気そのものでした。しかも窓から市庁舎も見え、朝は市場が立ち並ぶ風景も観察され楽しいお奨め度世界遺産のホテルでした。
また、併設の地下にある
ワインケラーのレストランでの食事も大変楽しいものでした。リコメンドのワインも最高でした。人気があるらしく、しばらくしたら団体も入ってきました。ホテルのは近くにありますが説明がないと行ける所ではありません。市外の駐車して徒歩でこのホテルまで来てから、案内人と再びその駐車場所に戻りやっとたどり着きました。
翌日は、クヴェトリンブルクから昨日通った道ではなく、ブランケンブルクまで戻り、81号線を南下しノウドハンセンを経由してERFURTからアウトバーン7号線に戻り、再度南下してWURZBURGへ行くこしました。 
81号線はのどかな風景が広がり、ドイツの平野はどこまでも広く、如何に麦が多く採れ、ビールが盛んに飲まれることが理解できるような街道でした。どこから何処までも全部麦畑でした。また、原子力発電を放棄した結果でしょうかドイツには風力発電の風車が多く見られました。

ロマンチック街道

ヴェルツブルク

ここからミーハーの
「ロマンチック街道」の始まりです。さすが全国区で日本語の標識もありました。

大きな都市ですので市中に車で入ると緊張します。車の数も多いし、標識も多く道路も立体があったりして複雑になってきました。それでも中心地を目指しましたら市のセンター地下駐車場にたどり着きました。マルクト広場の真下で、便利な場所です。ここに車を置いて市内の探索に出ます。
今日も天気が良く外気温は30度を越しています。道行く人々は喘ぎながらをほうばるのです。私もそうですが・・・。

ロマンチック街道スタートの地、マイン川とフランケンワインのぶどう畑に囲まれたマリエンベルク要塞がそびえるところです。紀元前1000年ごろケルト人がマイン川沿いに砦を築き、7世紀には聖キリアンがこの地で殉職したのを期に、8世紀に司教座がこの地に置かれてから、歴代の司教領主の元で、町は大いに発展してきました。
日本の鎖国時代に長崎の出島で活躍した医師シーボルトやレントゲン等を輩出し、6人ものノーベル賞受賞者を世界に送り出した文化的な都市なのです。

宮殿レジデンツ
天才建築家のバルタザール・ノイマン作の華麗なバロック様式の領主司教の
宮殿が旧市街の東に鎮座しています。すばらしい重厚な建物です。18世紀に入り政局も安定し戦乱に備える必要もなくなったのでした。一方それ以前は宗教的権力と政治的権力の闘争を繰り広げてきたので、司教領主の居城は堅固な要塞が必要だったのです。
アルテマイン橋からマリエンベルク要塞

大きな都市から郊外へ出るのは高速道路入口標識を頼りに走ります。入り口を見つけたら方向を間違えないように注意して加速します。一気に130qまで上げますので日本の感覚とは違いますが気持ちのよいものです。勿論、ほとんどの場所では制限速度がありません。140q位で走っていてもどんどん追い越されていきます。フェラーリー・ポルシェ・ベンツ等が「そこどけー!!」と時速200qでかっ飛んで行きます。遅いのはトラックとキャンピングカーと外国人です。彼等は車間距離をとりませんから、事故があったらすごいでしょうね。マナーは大変よいです。一般道で横断歩道に人がいたら絶対に止まります。黄色信号で交差点に入る車は皆無です。日本に帰ってきたら赤信号でも停車しないで走り抜ける人を多く見かけますが、経済大国と言われつつも、モラルの低さはアジア・中近東全般のそれとほとんど同じで、文化的レベルは依然として発展途上国と変わりないのがさびしい限りです。

ローテンブルク

最初にコロンベルグのガストホフに17:30チェックインし、その後ローテンブルクへ入りました。この町はロマンチック街道のなかでも最も楽しいものの一つでした。マルクト広場まえの旧市庁舎も立派ですし、伝統の時計台の「元祖ビールの一気飲み」があったり、町も落ち着いていて適度に旅行者も色をそえ雰囲気のよい観光地の雰囲気をかもし出しているのです。

市庁舎
市参事会員酒場の時計


時計台の壁左がティリー
将軍右がヌッシュ市長

一気飲み中
のヌッシ市長
1631 年カトリック軍がプロテスタントのこの町を攻撃して占領しました。勝ち組のティリー将軍は町を略奪すると脅しましたが、思いつきから将軍は市参事会員の誰かが3.25Lの大ワイン杯の一気飲みをしたら、この町を容赦すると宣言しました。そこでヌッシュ旧市長がこの偉業を成し遂げて、町を救ったと言うお話です。夏時間で21:00にもこの時計仕掛けが動くと言うので、夕食後再びこのマルクト広場に来て見学しました。かわいい人形の寸劇を見るような楽しい一瞬でした。
その他一年中クリスマスの飾りを売っている有名店「ケーテ・ボールファールト」があります。
マルクト広場まで車は入れますが、旧市街外(城壁外)に路上駐車できますので、そのほうが便利です。
有名なプレーライン小さな場所の意味、右
はタウバー渓谷の二重橋へ、左は南の郊
外からの乗り入れ道へ
石畳のとおりはお伽の国の景色ここ
は時間が止まってしまい。
「中世の宝石」と呼ばれる町
ここは古い城壁。それに囲まれた町は、
レンガ色の屋根と各家々の窓辺を飾る
色とりどりの花が美しい


聖ヤコブ教会前のテラス
Reichs Kuchenmeister で

サラダとヴィナーシュニッツェルと
ワインお奨め度

名物のお菓子やさん
Cafeuhl Gastehaus

これが雪ボールお菓子
シューネーバル

コロンベルク

ガストホフ・コロンベルグ
最初は古城ホテルを捜していましたがドイツ農家も面白そうとwebで申し込んでみました。期待どおり牛の匂いのする田舎宿でした。ローテンブルクから25qほどの場所、チェックインすると部屋の鍵をくれますが、それは玄関と共通で夜間はロックするのです。遅く帰ったら自分で開けて入れと言うことでした。再び街に戻り夜遅く帰って来ましたら5台の車がありましたので他にもお客がいたのでした。翌朝の朝食にでた牛乳が新鮮で濃く、これが「ばかうま」でした。朝食は我々だけでゆっくりと出来、出発まで誰も出てきませんでしたから、皆さんゆっくりの旅の様子です。シャワー付で54EURはお徳でした。さて、再びアウトバーンA7に戻り、ディンケンスビュールを目指します。

ディンケンスビュール

朝早く町に着くと、道路に横断幕が張られており、なにやらお祭りの様子です。市内手前の広場にみんなが車を駐車していますので、それに習って車を置き、徒歩にて門をくぐりました。

ゼークリンガー門
牧歌的なヴェルニッツ川にそって佇むかっての自由都市は昔ながらの景観を保っています。中世の旧市街は完全に保存された城壁に囲まれた文化財で、今でも毎晩昔ながらの夜警が城壁を回るそうです。
農民戦争・15年戦争・第2次世界大戦までほとんど被害を受けていない町です。
この門の入り口で若い人達が「子供祭りが始まり、ここからは入町料が必要です。」とのこと、料金を払ってタグを貰い街中を探索しました。ちょうどパレードと歴史劇舞台が終わったところで、今日主役の子供たちはクラッシクな衣装を着たまま騒いでいました。それだけでも中世の人々の様子を感じることができ、一緒に写真を撮らせてもらいました。大人たちは休憩中でしたが、どうぞという感じで我々を歓迎してくれました。

こんな標識がありました。戦車の最高速度は時速70qまで??

30年戦争(1618〜48年)の時スウェーデン軍に囲まれ、まさにこの町が破壊されようとした時、子供たちが敵の将軍に必死に慈悲を願ったところ、将軍は我が子を思い出し心を動かされ、町の破壊と略奪を思いとどまったと言われているお話です。それに感謝した大人たちが、子供たちに食事やご褒美でもてなしました。これにちなんで「Kinderzeche」のお祭りが行われています。


東門の衛兵達は食事中
パンとチーズとトマトです

子供たちは屈託がない
大人たちはおしゃべり

子供の兵隊さんは直立不動

子供が主役
演劇に疲れて・・

ネルトリンゲン

リース盆地にあるかっての帝国自由都市は中世の景観を完全に残しています。

ダニエル塔からの眺め
この町を空から撮った写真を見たときにはこれは何だとびっくりしたものです。見事に丸い城壁の中の町なのです。その回廊を一周できるのです。それもそのはずで、何万年前かに隕石が落ち、出来た丸い大きなくぼみの中に町が出来たのですから、天然の丸があるわけです。町に着きMIは今回の階段登りはPASSなので、私が一人で教会のダニエル塔90mの階段を登ることにしました。入り口には入場金額が書いてありますしたが誰もいません。まあいいかと登りはじめました。結構な螺旋階段で350段ほどだそうですが、最上階のテラスに着いたら、塔の見張り番任の「ローター」おじサンがいて、1.7EUR集金されました。彼は「毎日ここまで昇り降りしていのか?」と聞いたところ、ここに住んでいるそうで後ろの部屋を見せて貰いました。なるほど・・・。塔の頂上からはさすがに景色がよく、確かに丸い町だということが判り感動しました。ここまで登って良かった・・・そして彼の言いなりにアルバムにサインと小文を書いて降りてきたのでした。下まで降りてから塔上で空中写真の絵葉書を買うのを忘れてきましたが、再度登る気はしないのでこの町を後にし、帰国後Webで下の写真を発見したのでした。
町の案内図も丸いです。
 Historical development

15 million years ago, the Ries (About 25 km in diameter) was formed by the impact of a large meteorite that hit the earth at aspeed of at least 70.000 km/h. Today this crater is one of the best preserved uns researched meteorite craters in the world.



聖ゲオルク教会のダニエル塔
町の中心近くまで入り込めます。路上に駐車スペースが多くありました。

アウクスブルク

市庁舎
ローマ帝国皇帝アウグストウスによって2000年以上前に建設されたドイツで最も古い都市のひとつで、15世紀から16世紀にかけてフッガー家とヴェルザー家による自由都市でのさかんな交易や銀行業務で最盛期を迎えました。旧市庁舎をはじめマキシミリアン通り等は中世の栄華をそのまま今に伝えています。
フッゲライ入り口
16世紀にヤコブ・フッガーがキリスト教徒のために建設した世界で最古の福祉施設、今でも家賃は当事と同じ額1フラッゲラ(0.88EUR)1部屋60uだから驚きでした。
フッセン

ヨーロッパの中心的場所で東西南北の商業の重要な地点で古くから栄えた町。疲れた旅人や、商人達が疲れを癒した町でもありますが、今は余りにも有名なったノイシュバンシュタイン城の観光基点になっている町でもあるのです。

ノイシュヴァンシュタイン城
ルートヴィッヒ二世はバインエル王国の王子として1845年に生まれました。1868年に18歳で王位を継ぎました。平和を望んだ王でしたが2度にわたり戦争が起き、多くの人民を失い政治や人間模様が嫌になり、時代の表舞台から遠ざかり、この城の建設に取り掛かったと言われています。そこに彼の理想的世界を作り上げようとしたのです。しかし完成目前にシュタルンベルク湖で謎の死を迎えたため、王座は置かれることもありませんでした。17年の歳月と巨額の費用をつぎ込んで彼の死後1年で完成しました。
ホーエンシュバン城


アルペンブリックホテル
フッセンはバイエルン地方の美しい休養地、アルプス山麗をバックに標高800〜1200mの高地にあり、市内には2000年にわたる歴史のある建造物が残っています。ホテルはホフヘンのアルペンブリックでフロントに群馬県沼田市と姉妹都市であると書かれており、我が生誕の地でありビックりしたところです。この部屋も湖側のナイスビューの部屋でした。湖の向こうにはドイツアルプスを見渡すことができ、絵葉書の中に入ってしまったかのような雰囲気のホテルでした。夕食はドイツ最後の晩餐なのでウエイターにケーゼシュペッツレ(パスタにチーズをかけた南ドイツ料理)とフォレミュレリン(虹鱒のムニエル)とフランケンワインを注文し少し豪華にグルメしました。

アウフビーダゼン
スイスへつづきます。